久しぶりに、
小林さんとゆっくり話す時間を過ごした。

最近の師は、日ごと世捨て人のように

世の中をサバサバと眺めて、
呆れる感情のほとばしりを
            楽しむように笑っている。


前回のブログ
【冬と春の隙間に】を読んでもらうと
           これおもしろい感覚だね、と言いながら、

あ?、そうだったよ
昔の事だけど、子供が突発的な出来事に驚いたり
強い刺激を受けると自己を失うっていうか、
気が抜けたような状態になって

その時、

大人たちが、身体を揺り動かしたり、
大きな声で名前を呼んだりして

抜け殻になった肉体に魂を呼び戻す
             確かそんなことがあったよ。

この詩は、それに似て、
自己が風景から剥がれて、遊離してゆく、
      秀平の中には、今だに、その子供の感覚が強く残っていて
         独特の死生観を、そこに見ているのかもしれないね・・・

そんな会話に反応したか、どうかは解らないが・・・
           師の視線が、目覚めるように強くなってくる。

そうだね、
いろんな見方がある中で、
利休の草庵の茶室が、処刑場として作られたって
ぼんやりと考えたりしている・・・

そう言いながら、
最近、師が書いていた一編の詩が手渡された。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

【テロリストの哀しみ】 小林澄夫。

出雲の黄泉比良坂には、大石がある
        あの世と現世を分かつ結界の石である。

利休の草庵の茶室にも、結界石がある。

茶室の結界石の内側の露地は、黄泉比良坂である
茶室のにじり口は、処刑の部屋の入り口

断頭台の刃の前に首をさらすように

犬走りのたたき庭の隅の、
         チリ壺は首受けである

               炉の上で煮えたぎる釜は、地獄の釜。

主客が相対し、あるいは、
     つれあいの座す青畳の上は
             一期一会の裁きの白州である

一服の濃茶と菓子は、
     自裁にしろ処刑にしろ

死にゆく者の、最後のこの世の名残の聖さんである。

下地窓の塗り残された
       小舞の竹は白骨であり

ほのかに洩れる外光に明るむ粗壁の赤土は
             返り血のぬくもりである。

塗りくるまれた洞床は黄泉の国への誘い。

くさぐさの茶器、茶花、掛け軸・・・
         作法を踏むことは、黄泉の国への道行である。

待つこと

草庵の蔭で待つこと。

風の音、
茶釜にサラサラと湧く湯の音、
下地窓から洩れくる黄泉のひかり

待つこと
死を待つこと。

戦国の世の城頭に変幻する大王の旗
       利休の草庵の茶室にさす影はテロリストの哀しみである。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

さて、数日前。

講演する機会があって、
      そこで幾つかの質疑を受けた。

『歓待の西洋室は、細部に至るまですきがなくて、
 とても張りつめた緊張感が漂っているのではないか?と思うのですが、
 それは空間として、息苦しさを感じないものですか? 』

                        という質問であった。

工業パネルばかりで組み立てられた空間や、
鏡面に磨かれた石貼りの無機質な空間、
石膏ボードに、ペンキを塗りつぶした空間ばかりになった現代に

人の手で生み出された、すきのない緊張感。

それはむしろ新鮮で、
背筋がすっとするような心地よさがある
            と、直ぐ頭に浮かんで、

こう答えた。

『 西洋室は確かに、
 すきなく仕上げられているけれど
 それを取り囲んで隠してしまうほどの、
 樹林や植物や自然石の風景の中にあるから、その緊張感は、
 むしろ心地よくて、ざわめく自然を、凛として際立たせていると思う』

その時、自分に
答えながら同時に
小林さんのこの詩が、浮かんでいた。

そうかあ、
もしかしたら・・・

もしかしたら西洋室も、黄泉の国への道行ではないが
   命の裏表を、体感しうる空間になれるかもしれない。

想像は膨らむ。

【歓待の西洋室】と【注文の多い料理店】はどこか似ている。

『注文の多い料理店』は、

森に狩猟にやってきたブルジョアの青年二人が、
   迷って途方に暮れた先で一軒の西洋風のレストラン
     「西洋料理店 山猫軒」を見つけ、入っていくという筋書きである。

登場する2人の青年紳士は、
身なりこそイギリス風をまとい洗練されているものの、

死んでしまった犬を前に、金銭でその価値を計るなど、
               心性の卑しい人物として描かれている。

二人は、
山猫軒での数々の「注文」を自分たちに都合のいいように解釈し、
危機感を覚えることなく山猫の前に身を投げ出してしまう。

最後になって恐れおののき、顔をくしゃくしゃにしてしまうのは、

自然を軽視する人間の傲慢さへの警告であり、
それが、いったん死んでしまい、青年紳士が無情に見捨てたはずの

犬によって救われるというのは、冷淡な扱いを受けようとも
            救いの手を差し伸べる自然を体現しているという。

そうかあ、と、あらためて

【歓待の西洋室】は、これまで通り妥協なく
すきなく作り続けてゆく、それを目指していいんだと。

張りつめた空間は、いわば、
       西洋室と相対し、自然の美しさを
                    表すことなのだ。

それを師に話すと

『 西洋室は、たぶん自然と文化の中間に、
 自然と文化の半ばを、ゆきつ戻りつするものとなって
 生活する、建築することで、自然と風景を壊してしまった現代に
 建築し、人が出会うことで、自然を軽視する傲慢さを正すんだよ。』

『 じゃあ小林さん、
 西洋室が完成したら、注意書きに
 ここに立ち入る際は、どなた様も白い下着をお着けください、
                      とでも、書いてみようか?』

そう言うと師は、

まさに『黄泉の国への道行だね』と笑っていた。

晴天の下、昨日一日、
        久しぶりに 西洋室の樹林にいた。

あんなに春が不安で、息苦しかったはずなのに
            その息苦しさの中に、年々春を待っている俺

その訪れを真っ先に伝えるカタクリが
去年よりも多く花芽をつけていた。

あと数日で花を開き、やがて種を散らすと
大きく張った葉も、溶けて消えてしまうカタクリ。

その花言葉が「寂しさに耐える」だと教えられて

              この春は一層、命の裏表をきわだだせている。