2011.4.1。この日は、
我々職人社秀平組の独立記念日。
実に設立から丸10年を生きた節目となる。
結社したのは、2001.4.1。
あの頃の俺と職人衆は、まさに満身創痍であった。
早朝7:00、
ボロボロのプレハブ小屋ひとつに、
雑草生い茂ったのらっぱで、
たき火を囲んで、< さてどうする―――?? >
皆の心の中には、いけるとこまでいってみる・・・
たとえ、それが散々の結果に終わっても仕方がない、
それでいい・・・・そんな覚悟があったことが思い出される。
どんな仕事でもやる覚悟でのぞんでいても、
現実の仕事は数えるほどしかなく、
親方である俺は、皆に本気になってこんな指示を出していた。
あそこに杭を打ち込んで、
ぶどう棚を作って実らせるんだ、
そしてその横の土を手グワで起こして、畑を作ろう。
どうだ!野菜を作ってみないか?
その畑の向こうにそびえる、真っ白に冠雪した北アルプス、
乗鞍岳と青空の、あまりに澄み切った風景が
自分たちのはじまりと、
一通りの機具類さえ整っていない
この現状を象徴して、
悲しくも、奮い立つような皮膚感が
背中から首筋に、逆立っては走り抜けて、我に返る。
資材置場用に旧耕田の土地を手に入れた時、
金銭が底をついていた。
地元銀行からは、保証人が少ないからと借入れを断られ、
地元のほとんどのゼネコンは、
前の会社から関係が切れた俺を否定することはなかったが、
地域特有の暗黙の何かが働いていて、
そのほとんどが、俺達を相手にすることはなかった。
( 唯一の取引先となったのが、飛騨建設 )
そんな一年を終える師走の忘年会。
無口であまり表情を表に出さない職人衆も、
よく生きたもんだなあ・・・なんとか潰れずすんだなぁ・・・・と、
新鮮な驚きをもって、酒を酌み交わしていた。
自分はいつも、
この時だけは、人目もはばからず、涙を流し、
年が明けての御用始めには、
やっぱり、どんな小さな仕事も手を抜かず、
良い仕事をしてゆけば、必ず、地元は俺達に目を向けてくれる。
地域特有のしがらみを破るには、
時間がかかるかもしれないが、
やはり地元に認められるように、頑張ろう・・・・
この飛騨を、大切にしよう・・・・
こんな訓示をした覚えがある。
そうして10年が過ぎた。
それでも実情は、
地元で会社経営が成り立った事は一度もなく、
その稼働率にしても50%に達したことは一度もない。
だから、毎年この一年の終わりになると泣けていた。
それは、全員で14名のうち7人が、
この地元のみでは、毎日の仕事にありつけない中で、
知らない土地と環境に臨み、
メンバー全員が心ひとつに、神経を張りつめて、
よくぶれず、乱れず、がんばってきた
結果の今日があると泣けてくる。
俺達が必要とされ生きた場所は、
東京を中心とした、どこかの誰かが見つけてくれたことに尽きる・・・・
他県の仕事で生きてきたのだ。
それは、同時に、
日本独特の生活スタイルも考え方も、どんどん薄れて、
今や飛騨風の木造住宅が建ったとしても、
和室でさえクロスや吹付けといった、
安価な雰囲気で良く、
≪ 腐っても鯛だ! ≫という意地や執着から
どんどん離れていったのかも知れない。
今、めずらしく高山行政発注の土蔵の修復工事7棟
という大型工事を手掛けてはいるものの、
実情は、予算はないは、工期もないはで、
まるで、なんとかのたたき売りではないが、
あと何日でどこまでやれる!!の大あらわ。
10年の節目。
実に10年という月日で得た結果は、いわば手探りではない重い真実。
景気の低迷も含めて、
飛騨の建築のあり様の中では、
この先も自分流の左官では、生きられないという事。
匠の国、職人の町、飛騨で、
職人は生きられなくなってきている、という事が言えてしまう。
来年のスタートは、
金沢と東京三田から始まり、
春からは、
東京から世界の可能性を、探ってみようという人々も現れてきた。
これから始まろうとしている10年。
また、その一年一年も、何ひとつ保障も安定もなく、
俺たちは立ち止まることもなく
その直感を信じて進む以外に道はない。
早朝7:00。
あのボロボロのプレハブは、
中古とはいえ大きな鉄骨造りに変わり、
今日もたき火を囲んで、
< さてどうする―――!! >
と、決まりの文句。
東京を舞台にして、
本当に世界なんてあるのだろうか?
まだ、そのドアの開け方も、
方向性も、今の俺達には全くわからない。
2011年。
職人社秀平組、第二部の幕明けとして、
次なる新しい環境と、
まだ知らぬ挑戦に、賭けてゆくしかない
そしてまた、良く生きたものだと笑って泣きたい。