2016年 1月10日から
NHK大河ドラマ【真田丸】が、いよいよスタートする

それに先立って
第一回の試写を見させてもらった。

オープニングは
真田丸の題字が生々しく強烈に表現されていて

高さ3m×幅6mの壁面に、
えぐって書いただけはある
とてもスケールの大きさを感じさせる迫力があった。


その映像を繰り返し見ては思う。
自分なりに良かったところ、悪かったところ
言い出せばキリがないが・・・・

しかし
NHKは、よくこの俺に題字をまかせたものだと
あらためて、
この泥字に至った不思議な縁を
思い返したり、空想したりして自分の腑に落としている。

これは
まったく史実的な根拠のない勝手な空想だが
そうして腑に落とし、
自分をリセットしているようなところもある。

「真田丸」とは
大坂冬の陣において、大阪城の弱点を守るために
豊臣方の真田信繁が築いた土作り(三日月形)の出城(砦)の名前で
構造は東西180メートルほどの半円形のくるわ(曲輪)だったと言う。

風雲急を告げて、
動き出そうとしている《冬の陣》を前にして
東西180メートルにも及ぶ真田丸を
当時いったいどんなやり方で
どんな様子で造ったのだろう・・・・・

たぶん、

時間がない、
人手がない、
材料がない中で

機械のない時代に
東西180メートルもの出城を
造ることは容易な事ではない。

そこに自分の持っている一枚の古い写真が
その空想をリアルにしてゆくのだ。

・・・・・結である・・・・・

結(ゆい)とは、
茅葺きの葺き替えや、土蔵の土付けなど、
主に小さな集落や自治単位における共同作業で
一人で行うには多大な費用と期間、
そして労力が必要な作業を、集落の住民総出で助け合い、

協力し合う
相互扶助と祝祭の精神で成り立っている。

この写真は、飛騨高山の昭和11年。

これから土蔵に
家族が土を打ち付けようとしている記念写真で

背景にある家に、
祖父母と、父母と、若夫婦の3世帯が同居し、
その家の子供たちがいる。
左端にいる、片手で泥を持っている男が
左官だという貴重な写真である。

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日本は木造が主流で、
建築では、ほとんどが大工棟梁だが、

土蔵や土塀は
大工の骨組みが立てば、
あとは《左官棟梁》という呼び名がある程で
左官が現場の指揮を取る。

たぶん真田丸は、

掘を掘る者、
堀から出た土を運ぶ者
石を運び組む者
木を運ぶ者
木を削る者
火を起す者
水を運ぶ者
土に切り藁を混ぜて練る者
竹を切る者
唾を吐きながら藁縄を作る者
竹を縛る者
鍋を煮る者
泥を渡す者
泥を打つ者

そして最後に【泥を塗る者】が

美しく塗りあげることで
その真の強さを誇示したのかもしれない。

こうして真田丸は出来上がったのではないか。

信繁への祝祭として
あるいは花向けとして

数人の大工や左官や石工がリーダーとなって

農民や、年寄り、女、子供、武士が一緒になって、
ごった返して造られたのではないか?

真田丸は土蔵づくりのように、
まさに身の回りにある弱い《物》と《者》が集まって
作られたのだろう。

まして、
戦況の圧倒的不利な状況が重なっているなかで

良いとか悪いとか
損得や駆け引きなどなく
いろんな矛盾をおいて
まず、理屈抜きに
皆が、信繁という親方が好きだったのである。
手放しで、ただ単純に好きだったのである。

その熱の力こそが真田丸ではないか

それぞれの立ち位置をわきまえ、
持ち場を達成する
集団の結束、合わせる息の力だ。

そこにこそ信繁の人間力や
その場に漂った祝祭の雰囲気を思うことができる。

そうして最後
土塀真田丸は、左官棟梁によって完成した。

そんな空想の縁を思うのだ。

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数年前、

東日本大震災の雄勝町で
復興を願うイベントを行ったことがある。

それは海岸線に、高さ4m×長さ40mという
巨大壁面を作り、思い思いのメッセージを
海に向かって書くというものだった。

俺たちは、杉の丸太を立て、
縄を結び
荒浜の漁民たちと一緒になって泥を打ち付けて
40mの泥の壁面を半弓状に立ち上げた。

そして、
最後に真っ白な漆喰を塗り上げた事がある。

今思えば
それも真田丸に思えてくる。

そう、俺は《真田丸》に縁があったのだと・・・・

2016年度の大河ドラマ、【真田丸】
その一端にかかわれた左官【泥を塗る者】として

その成功を祈りたい。