九州の頃の20代、その後の30代と、

俺は
セメント一色の世界で
ただ壁を塗ることだけを考えていた。

ただセメントモルタルの壁を塗る。  

・・・少しでも早く 
・・・少しでも上手く

このふたつの課題は、何処までも続くように思えた。


その腕を身につけて
さらりとした風に、どうクレームなく仕事を抜けてゆくか。
いかにも熟練的な雰囲気や、しぐさに憧れたものだった。

そんな風に、

ただただ壁の基本的熟練について考えていた毎日

それで満足だった。
余分な情報を一切入れず
壁以外の事は何も考えていなかったともいえる。

毎日、毎日、
ほぼ同じ繰り返しの
ワンパターンの中で、ごく微妙な違いを

大きな変化としてとらえていたように思う

最近になって
しみじみと思うのは

変化の少ない、ありきたりな日常。

この《大いなるワンパターン》を感じられている事こそ、
ブレない力であり、強さなのだと思うのだ。

つまり、
ありきたりな日常を噛みしめられる力だ。

ワンパターンの中にあって、
希薄にならないで、実感出来ていること。
それを変わらず、いつもどうりに受け入れていられる人

そういう姿を感じる時、深い品格と知性と、
何より代え難い信頼を思うのだ。

その逆に
ありきたりな日常への不満は、

向上したとしても、不満をつのらせ
最後には散漫になって居場所を失ってしまう。

《ワンパターンのまなざし》

これこそが本当の才能、
そして、大きな可能性を秘めた人間力だと思う。

ワンパターンのまなざしとは、

地道で素朴なまなざし。
自分の手の中に、いつも握りしめている、まなざし。

そのまなざしは

人生におこる、貧しさや荒波
せつなさや悲しみに耐える力
思いやる力
律する力
わきまえる力

それらが時に、
華やかな場面や、誠意ある出会いを生み

たとえ上手くゆかなくても
このワンパターンの骨格の太さによって
             人は救われるのだと思う。

つまりそれは
立ち直る力、
やり直せる力を握りしめているのだ。

ただただ、そう思う。

さて、このまなざしと
繋がっているか、どうかわからないが

まなざしという言葉を思うとき
自分に浮かび上がる、ある場面がある。

高校野球に見る
ピンチになるとタイムをかけて、
ベンチからマウンドに走る控え選手の「伝令」である。

酒を飲んだ席で
この場面を話そうとすると、いつも涙が言葉を追い越して
話せなくなってしまい、
あれあれっと、ポロポロこぼれてしまう。

その役割は、
ただひと呼吸あける「間」を作るための背番号14。

元、レギュラーだった場合もあるだろう
最初っからギリギリベンチ入りに賭けてきたのかもしれない
陰ひなたなく声をかけ続けて
チームを自分の事として
応援し続けて獲得したベンチかもしれない。

そのベンチは、
培って来たプライドを、
一度粉々に砕かれてから
立ち上げた、根の太いプライド
地べたから生みだしたプライドだ。

・・・・・

ピンチの時に
ベンチからマウンドまでを走る伝令は

その晴々とした一瞬を
皆を励まし、檄を飛ばし、思いやる。

たぶん、心の中に百も二百もあるだろう
言葉のひとつを取り出して走る。

《・・・伝令のまなざし・・・》

たるを知ることこそ豊かなり。

しかしその一方で

満足したら終わりだという
どちらも正しいそのなかで

爽やかに
マウンドまでを走る真っ白なユニホームは

自分の事だけで一杯ではなく
試合を、全員に自分を重ね合わせるまなざしを持って一瞬を走る。

その心持ちの思いは
頭で理解する人と、身体で感じられる人とにはっきり別れる。
これ以上思考すると、今にも泣くのでやめる。

もし、僕は伝令でしたと、
   爽やかな言葉を聞いたなら、

その人間はきっと

ありきたりな幸せの要であり
ひとつの集団の要となっているだろうと思う。

大いなるワンパターンという、才能と幸せ。