一ヶ月ほど前、
小林さんに弱音を吐いた。

ガクガクおびえた声で自分を話した。


旅から地元に戻るとき
戻っているのか、わからなくなる。

ある人から聞いた
言葉が残って消えない。

本物でも
強いものでもなく、
残るものが残るのだと
      思っています。

人も同じ
すきな人や
仲良しの人が
ずっと側にいるわけではなく
残る人が残る。

それは、諦めではないけれど
シンプルなだけにとても難しい。

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《6月20日、師からの手紙が届いた。》

秀平様

小林澄夫

前略

連日、雨…。
過日、渋谷では有難う。

ところで当日お話ししたジャコメッティの素描展で見た
現代画家の海の絵の写真を送る。

スペインのバルセロナの画家で
           名前はバルセロとか…。

ピカソ亡き後の世界的な画家と言われる。

私はその画集を見たが、
闘牛場や牛の絵に、なかなかいいものがあった。

展示されていた海の絵も惹きこまれるものがあった。

波を見事に描いている。
バルセロナの地中海の海の波だろう。

送った写真のこの中の
白い波の絵を見て
秀平の泥や漆喰の表現を思い出した。

現代絵画が表現しようとしているところ、
現代芸術が表現しようとしている感性に
心ならずも(?)(秀平は)近づいてしまったのではなかろうか。

いくところまでいくしかない。

秀平はもう、普通の職人の道から外れてしまったのだから。

現代というこの苛酷な風景の中で
おのれの圏域に自由で固有な空間を持って
              生きることは難いのだから。

倒れるまで
その道をゆくしかないにしても、

表現されたものが、そこに対象として
自分の前にあるということは
何物にも代え難い自由に生きた証なのだ。

私は思うのだが、

秀平の魂のもっとも深いところ、
内蔵感覚の暗所で、

もういい、
もうやめよという声が聴こえてきたら
行くのをやめればいいと思う。

おのれの、
誰とも交換することのできない固有の声は
そんなに何度も聴くことはないのだから…。

喫茶店の窓の向こう、
        雨は降る降る…。

草々

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この手紙を何度も読んでいる。

師の文字全文を、
その場で読み取ることができないが
読み解くことも出来ないが

手紙の文字を
途切れ途切れ追ったとき
       目と、鼻の奥がツンと痛くなった。

・・・残る人が残る・・・
・・・雨は降る降る・・・

そんな人の、遥か向こうの空のような師。