第11回文化庁、文化交流使活動報告会

今年、2月下旬

政策研究大学院大学想海樓ホールにて
        文化交流使活動報告会があった。

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「日本のものづくりには底力がある」
 そんな「有識者のコメント」を何度となく聞いてきた。

確かに農業も、

精密機械も、造船のような重工業にしても、
     日本の技術、技能は繊細、緻密で、
                世界に誇る完成度がある。
 

けれど、
ものづくりを語る、多くの有識者の話を聞くとき

そのほとんどが、

町工場の技術力に焦点が当てられて、
    ものづくりの危機的状況の話が、
          いつもどこかですりかわってしまう。

誇らしそうに「必ず本物は残る」というような
           綺麗な言葉でくくることで、
              実態からズレてしまう話ばかりだ。

デフレ経済の、
とにかく安く早くという時間が長すぎたのか

日本中の人々から、
価値観とか審美眼がなくなってしまったように思う

まず安全や保障ばかり優先して、
それを数値に表せる均質な工場製品に流れてしまう
    
建築の職人達の手づくり環境は、厳しくなるばかりの、この20年。

 

ものづくりは、大きく4つに分類しなければならないと思う

(一)町工場の近代技術と技術者のこと。
(二)彫物や漆、陶芸・和紙などの手工芸と職人のこと。
(三)建築における伝統技能、大工、左官、建具などの職人のこと。

(四)二、三に伴う素材採取と精製、その道具をつくる職人のこと。
 

とくに
(三)(四)は激減、今や消えつつある。

よく間違えているのは、(三)(四)は
《技術者》 ではなく、《技能者》と呼ばなければならない。

日本の建築は、

塗り壁も畳もカンナも必要としない
       組み立て工法の住宅が、今では普通に主流で

現場でつくる手仕事はなくなるばかり
政治の政策・・・?、それを直接感じたことは現実、全くない。

今回、文化庁文化交流使の指名を受けたのは、

左官がなんらかの形で残ったとしても、
            若い弟子たちは、

     未来に左官を生業として続けていけるだろうか?

伝統につながる我々の、
日本の、数十年後がどうなるかを感じ取れるかもしれない、
                  という思いからだった。

「ニューヨークで試すということ=未来を計ること」だと考えたのだ。

それを感じるために、
   適当かどうか分からないが、
       ある決めごとをしていた。

自分を
「日本の伝統的な技能者、職人であり、日本の文化を背景にしている」
と言わないこと。

「伝統、文化、職人技、日本」という
      お決まりの概念が張り付いた瞬間に、
            それに惹かれる人達だけが集まり、

NY社会のリアルな評価、素直な感想が聞けなくなってしまうから。

伝統や文化に頼まず、

ニューヨークに日々集まるARTのように
      「ただ、表現だけを裸であらわし」

それに対してニューヨークがなんと言うのか、
           自分をさらしてみようと考えた

チェルシー地区での個展は、30の壁の作品を並べた14日間であった。

それで、
ニューヨーカーの感想としては、

「これらはARTでもクラフトでもない
   とても新しい《ネイチャー》という感覚を受けて
                私たちの心が温かくなった。」

                  というものが大方を占めた。

そこで語られる
《ネイチャー》という概念が、

日本で言うエコロジーとは、どうやら違う。

日本人の好みそうな精度と緻密さのある作品は、

一応、「素晴らしい」ととても評価されたが。

ニューヨーカーが感動していたものは、

そういった精度とか緻密さではなく、

素材感が前面に出た存在感のある作品であった。

その存在感とは、

ひとつの自然素材を
そのままに生かしながら成立させているもの、

見方によっては、

大胆というか、
ガサついているというか
ザラザラしてランダムな表現、それを《ネイチャー》と呼び

自然(素材)の利点・欠点が共存しているものだったのだ。

そこで直感したのは、
日本人の自然観と、西洋の自然観が違っている

日本は、エコロジー=数値化した自然

つまり人間の経済の思想で、自然を管理する、

CO2などの成果を
数値に置き換えて表すものになっている日本、

それこそが職人仕事を切り捨ててきたのである

この20年、

樹脂と顔料で土風に作られた工業的建材を
   本気で本物の土壁だと、思い込んでいる人に
            どれだけ出会った事か、わからない

土壁にひび割れが入った
無垢の木板が割れたと、真顔で訴えている人に
どれだけ会ったか、わからない。

ニューヨークが
  もっとも評価したものは、

作り込まれたものよりも、
自然そのものの表情に、私たちの心が動かされてしまうのです
と、いうものだった。

利点欠点の両方があって、それが自然なのだから。
               
           という人が多かった事の新鮮な驚き。

《ネイチャー》=自然を受け入れる心
       = 自然の本質を見つめる。

それは、

世界共通して響き合うことのできる新しい概念

もともとこのような感覚は、
    日本人が持っているものだった。

けれど経済的な効率や
工業化された製品を追いかけているうちに、

《わびさび》《もてなし》など、
口にはしても、その心はもう遠い。

いやいや、ちゃんとあるよ
そう、真顔で反論する人が現れる

でもそれ、
間違ってはいないだろうけど
ほんの一部を指しているだけで、全体を見ていない人のこと。

これからの日本で、
本質的な《ネイチャー》という感覚が
取り戻されてされてゆくか、どうかはわからないが、

職人はネイチャーを考えて、続ける以外に道はない。

俺はそれを、左官のみならず、
      伝統の職人達にそれを伝えてみたい。

        本質的な自然観を、日本はまだ取り戻せるか?