・・・・・土蔵。

故郷に建つ土の土蔵、
旅先の集落に見かける、白い漆喰塗りの土蔵の群れ。

在来線の車窓に通り過ぎる、重い瓦屋根のくすんだ土蔵。

土蔵は、我々日本人の収穫した米や、味噌や塩、酒を、
        一定の温度と湿度で守り、保存していた命の箱であった。


力ある者の、財宝や、重要な文物を焼失せぬよう火から防ぎ

威厳と権力の象徴として、

土蔵は、重要な佇まいとして屋敷に並び建ち

職人衆は旦那の元で、持てる美意識を競い合ってきたのである

旅の途中、そんな土蔵を意識して見ていると、

外壁には、[水]と一字、立体に描かれていたり、
 雲を呼ぶ龍があったり、波に兎、七福神、鼠、鶴亀、etc、と、
                      様々なものにすれ違う。

それらには、いずれも意味があって、
      雨を願い、火を避け、福よ来い、長寿、子孫繁栄、安産多産。

ひとつひとつを挙げればキリがないが、
珍しいものでは、 鼠返しの猫があったり、旭日旗まで登場する。

いつだったか 小林さんと旅をしながら、こんな会話をした事がある。

小林さん、それにしても、南の仕事と北の仕事の違いが面白いね、

同じ仕事でも、南の七福神はまるで、
       あの、アニメの笑うセールスマンような顔をしているし、

北へ、北へと向かうほどに、笑うセールスマンは
        恵比寿顔を超えて、まるで、能面のような表情に変わる。

善と悪が共存しているような、計り知れない深みまで漂よわせて

龍も鼠の兎も、みなよく此処まで高めたもんだと
             神技的な完成度に、ため息しか出ないよ・・・

そういうと、小林氏は、

そうだね、南の七福神の笑うセールスマンは、
         自由で大陸的で、その寛容な豊かさが、
                    我々の心まで緩ませてくれる。

でも日本という国は、大陸から伝わってくる文化を
                   まず九州から受け入れて、

列島を北へ北へと、北上してゆく過程の中で、

洗練され、余分なものを削ぎ落とし、
   独自の美意識を注ぎ込んでは、徐々に形を変えてゆき、
                 完全に日本化して花を咲かせるんだ。

我々特有の、美しさと悲しみを宿して
              また別の形にまで到達し、完成してしまう。

それが、気仙の大工や、左官や、いろんなものづくりに
                   見られる神技のような仕事だね。

でも、いまでは・・・・

そうだねえ、それも、形が残っているだけで、
      大工も、左官は特に受け継がれる事なく途切れて、
                    謎のまた謎になって解らない。

ある意味では、

安易に修復されるより、
もう、このまま消えて、崩れ去って行った方が、自然だと言えて

なんだか、その最後は、あの東北の深い闇が、
   きっと、その仕事と魂までも、全てを飲み込んでしまうんだろうね。

そうして、現代は我々の風景をドンドン失って
         だからきっと、東北の闇はあんなに哀しく美しいんだよ

自分は、うなずきながら思い出していた。

二人で東北に土蔵の旅に出かけた時・・・・・

確かに秋田や岩手で見た、あの奇跡のような土蔵の衝撃。

こんなとてつもないものが、
        文化財にも指定されず、
            忘れられて崩れ、無人の中で
                 草に埋もれていたのを二人は立って、

もう、再び出会えないかもしれない運命の土蔵に、
               沢山の写真を撮り残すしかなかった。

今、自分はゆっくりと、10年の月日をかけて、

あの衝撃の土蔵に負けぬ情熱をもって
              持てる力を傾注した、夢の館を造っていて

それは自分では想像もしなかったような
大きな夢を追いかけている喜びを感じながら・・・・・・
そして、こんな大きな挑戦をしている自分への驚きがある・・・・

よく聴く、決まり文句のような体験のない言葉。

『まだまだ日本は大丈夫だよ、日本の底力は世界に負けない・・・』

そんな、現実離れした、とりあえずの理想を繕った慰めではない。

自分がこの先

どんなに頑張っても、
     一度途絶えたあの衝撃の土蔵の技能を
                 生涯会得することのない現実がある。

いま、夢を追えているのは、
数年前のコンフォルトの雑誌で連れて行ってもらった、
360度の地平線のど真ん中、大自然の中に立って壁を塗った体験と、

衝撃の東北の土蔵に、
立ち尽くした記憶が焼き付いた体験から

自分が描ける自分の夢を、めいいっぱい想像しながら
                  追っているだけなのだ。

悲しいかな、今の日本の現状は、
    手作りの技能と、その情熱の値打ちを理解できず

数値化できないもの(職人技能)は認めない世の中の矛盾に
                      生きられなくなっている。

そんな5月、まだ未完成の館にギフチョウが舞っていた。
数年前から植え込んで育てていた葵に誘われてやってきたのだ。

葵の葉陰に宿った、幻の蝶のたまごは、
         15匹の幼虫になって、目の前に生きているのである。
              

そんな奇跡を小林氏に電話で知らせると

秀平は、
あの衝撃の土蔵の技能は持ちあわせていないけれど、
              同じくらいの奇跡に触れているんだよ。

そんな幻の蝶の奇跡は、

諦めるな、本当の職人の技能と情熱は必ず残ると言っているのか?

それとも、
日本は過去さえ手放すような国になってしまうから
                    ここへ逃げて来たのか?

3・11の震災以降、復興のあらゆる議論を聞くたびに、
自分は、何か自分とは遠く離れた別の話のように聞こえてしまう。

木漏れ日のしたで、ギフチョウを見ていた俺は
              本当に生きているのだろうか?

             それとも、幻の中で夢をみているのだろうか?

( 注 ) ギフチョウ 
日本産の蝶の中でも特に保護活動が盛んに行われている種類である。
近ごろでは生息地である林の多くが、少なくなり、絶滅の危機にある。
日本の固有種で、本州の秋田県南部から山口県中部にいたる26都府県
(東京都・和歌山県では絶滅)に分布する。
自然保護キャンペーンや、保護論者のシンボル的存在ともなっている。