「 あら楽し 思いは晴るる 身は捨つる
浮き世の月に かかる雲なし 」
これは、あの赤穂浪士の大石内蔵助が 詠んだ辞世の句なのだが・・・・
この誰もが知っている 歴史上有名な事件のはじまりは、
元禄14年3月14日( 1702年 )。
江戸城、松の廊下で赤穂藩主、
浅野内匠頭が刃傷に及び、
大名としては、異例の即日切腹となった。
その時、浅野内匠頭の辞世( 切腹前に詠んだ句 )は、
「 風さそふ 花よりもなほ 我はまた
春の名残を いかにとやせん 」
風に香りを乗せて、
自然に散りゆく花に対して、
この思いを伝えることすら出来ず、
自分は無理に散っていかなければならない、
悔しい思いが こめられているようなのだが、
少し調べてみると、
大石内蔵助は、この主君の辞世に込められた悔しさに、
あだ討ちを決意したというのが 大方の見かただが。
武家諸法度からすると、喧嘩両成敗にありながら、
吉良家には、おとがめなしという沙汰が下され、
一方では、
赤穂城は明け渡しの上、お家は断絶。
お家再興を願っていた内蔵助の、最も、とおとい嘆願も叶わなかったこと。
それらの情報が、ひとつずつ、
駆けつけてくる家臣らから伝わってくる、
十数日の短くも長い時間が、大石内蔵助にあった。
時代の将軍、五代綱吉のマニフェストは、
武士道の復活。 主人に対しての忠義が第一義という考え方である。
幕府の裁定に対する不満を募らせる内蔵助。
自分は、今ここで、
歴史的な事実を探ろうと思っているのでは全くないが、
つい最近、ふっとこんな事を思った。
まず、浅野内匠頭の辞世を受けた大石内蔵助が、
主君の無念を思うのは言うまでもないが、
そこから順に届いてくる矛盾の連続の中で、
本懐を遂げる意志を固めながらも、その強烈な思いが、
徐々に時代に対する不満や、時代に向けて叫びたいという
反逆心となって、強くなっていったに違いない。
いま、あらためて、
この大石内蔵助の読んだ辞世の句を見る時・・・
「 あら楽し 思いは晴るる 身は捨つる
浮世の月に かかる雲なし 」
自分は思う・・・・。
この大石内蔵助の辞世は、
見事に目的を遂げて切腹が言い渡されてから考え、詠んだものではなく、
主君、浅野内匠頭の辞世を知ってから、
この赤穂城下にいる内に、
考えて考えぬいて用意していたものだったのではないだろうか。
天下世間に向けて・・・。
自分とは余りにも違ってしまった時代の流れ、政治に向けて・・・。
吉良上野介を討って、華々しく一矢を報いたあとは、
ただ黙することで
この覚悟が辞世のみとなって≪きわだつ≫その一点に命をかけようとした。
この辞世を詠まんがための一瞬に、
すべてを冷静に組み立て、
行動をしていたのではないか?
内蔵助は思っていた、
こんな時代からは、いさぎよく、すがすがしく決別し、
皮肉を込めて、矛盾を突き、最高の残念と信念を伝えたい。
誇り高く美しく・・・
そして、そして・・・あまりに哀しく。
忠義という大儀を超えて、
滅び、消えてゆくさまを、≪あら楽し≫ といって
身をもって示したかったのだ。
関ヶ原の合戦から徳川の時代も100年がたち、
人の心も様変わりした 大平の元禄の世で、
内蔵助の嘆願書には
「 赤穂家臣は武骨な者ばかりにて、
ただ君主一人を思い、
赤穂を離れようとはしません、
吉良上野介様への仕置きを
求めるわけではありませんが、
家中が納得できる筋道をお立て下さい 」
なんだか自分には、大石内蔵助が自身に宿る、
最後の武士魂を叫んでいるように思えてならないのである。
自分自身が武骨な武士であるという、
どうにも変えることのできない性 ≪サガ≫ と精神を、
時代とは関係なく貫いてゆく方法でしか 生きられなかった・・・
精一杯生きてゆく形、それが死という結果になった。
一年ほど前・・・・。
自分は、高山市内を運転中に、シートベルトの未装着で、
2回連続捕まった事がある。
いずれも、
ハンドルを握って3分と経たない間の出来事で、
どんなに嘆願しても許される事はなかったが、
それはともかくとして、
警察官は、ペンを片手に白切符の減点用紙を手にして、
粛々と免許証の確認をすると、
名前は? そして職業は? といって尋ね始める・・・
自分は、≪ 左官 ≫と答えると・・・・はい?
もう一度言ってください、それはなんですか? 聞いたことがないなあ、
と、首をひねりながら、何度も聞き直してくる。
2度捕まって、2度とも同じ。
俺達を守る立場にある警察官が、
左官も知らず、尋問していることに腹が立ってしまった。
最近では、講演の依頼を受けて・・・
まず、
『 皆さん、話をする前に、左官ってどんな職業か知っていますか?』
と尋ねてみると、
知っているのは、ほぼ10人に1人いるか どうかと言ったところである。
これが、リアルな現状なのだと、あきらめがはじまってしまう。
明治に始まった近代化をどんどんと加速させてきたこの100年・・・
リーマンブラザーズからの世界金融危機。 郵政民営化とか、
失業率5%だとか、デフレ? 円高?
軌道修正などもう不可能になってから、
後手後手の対応に終始する政治状況は
これもまた、
人の心が様変わりしてしまったような本末転倒なことばかり・・・・・
毎日毎日、誰かをやり玉にあげて、
成立させているテレビ番組は、
ただ面白半分の賛否両論で、
ことの本質など余計にわからなくなる。
政治家や経済評論家やコラムニストの、体験の伴わない机上の話や
平等と権利の模範解答のような会話は、もう聞きたくはない。
我々のように手でものを作っている側からすると、
どこか別の国の話のように遠く、
あまりにも実感と実行に、かけ離れすぎている。
そんな彼らは、
≪ ものづくり日本 ≫だとか、≪ 日本の技術の底力 ≫
などという言葉をよく口にするけれど
それは、機械金属工業に代表される近代化を支えた町工場の≪ 技術力 ≫の話であって、
近代化以前から続く職人の、自然素材を使った日本古来の ≪ 技能力 ≫の話ではない。
経済産業省の伝統産業のグローバル化
という資料を目にした事があるが、
これまた机上で
どこまでピントが外れているのか、
問題はそれ以前の所にある事が
さっぱりわかってはいない。
現在からさかのぼる100年は、異常なスピードで流れている分、
300年の変化をしているといっても過言ではなく、
生まれてくるものと、
消えゆくものの良否を考える間もないまま、
人間も物も、ただ流れている時代。
匠の町、小京都と呼ばれるこの飛騨の建築も、
このわずか15年で加速的に変わってしまった現実は
土地の人びとの意識が変わってしまった事を意味しているから、
元には戻らないだろう。
最近では珍しく、
和風入母屋の住宅が建築されても、その壁の仕上げは、
工業パネル打ちつけの上に、砂入りの樹脂系の吹き付け材で
色合わせされている
その上、姉歯事件からの建築基準法の改正に対応できず、
土地に根づいていた大工棟梁が、次々と廃業に追い込まれ、
それが同時に左官にも連鎖しているように、
あらゆる伝統技能の職種、すべてが皆一律、おなじ境遇にあるのだ。
職人たち≪ 技能者 ≫は、
その痛みを、その身体で知っているから、皆いさぎよく、優しく、
反論をしようとも、その手段も持ってはいない。
我々は皆、
伝える手段を形づくることに捧げ、身体と手を使い、
日本古来、ゆうに1000年、
受け継がれてきた火を、いまや、すきま風の吹く場所で、
一本のろうそくの火を両手で覆うように、
守り続けていることで精一杯で・・・・
もし、いま手を離せば火は、目の前で消えてしまう。
しかし現実は、
まず政治から遠く離れた地方から、
素材も、知恵も、最後の職人も、弟子達も、
いよいよ、次々と音もなく、消え始めている。
ひとつの技能で、
世界を魅了させられる、名も無き職人が、地方から姿を消しているのだ。
奇しくも今日、参議院選挙の投票が全国一斉に行われている・・・・・
その、近代化以前からの職人の、
自然素材を使った日本古来の≪ 技能力 ≫の話・・・
をした政党、あるいは立候補者の演説を聞いた事は、
この数年を振り返っても自分には一度もない。
あれだけ誇り高かった
≪ 日本 ≫という文字と響きさえ、もう、こころに届くものはない。
自分の尊敬する小林氏の書いたフレーズが頭に焼きついてはなれない。
・・・・西の山に陽が沈む、さあ、皆の衆よ、おいとまとしようか・・・・
はじまりだした、職人最後の時代の到来。
あえて、嫌な言い方をするなら、
我々の、どうにも変えることの出来ない性 ≪ サガ ≫の結末は、
切腹でも、廃業でもない。 ・・・・餓死というのが適当かもしれない。
いま、自分が、メデイアに登場し、
表に出ているのは、ただ目立ちたいからではない。
生きるため・・・
このまま、飛騨にいてもその餓死が見えていたから・・・・
そして時代に対して、
自分たちの持っている技能を、精一杯にそそげる一瞬に、
あら楽し・・・といって、
せめて華々しい一矢を放ちたいから・・・・
それは最期の時が、
自分たちにも、
せまっている事を悟っているからである。