今から10年ほど前、

自分が土壁を目指してひとり、
おぼろげにも自分流の形が解かり始めてきた頃であった・・・・・。

あるオーナーから、

高山の中心部に建つ土蔵風の外壁の、
真っ白な壁面をキャンパスと見立てて、

『お前の考える壁を、何でもいいから自由に表現してくれないか?』

そんな依頼を受けた事がある。

当時、こんなに大きな壁面で、

自由な条件の場が与えられた喜びに、
ふたつ返事で了承をすると、

オーナーは大胆で、
これは楽しみな事になったとニコニコと笑っている。


それから・・・・・およそ2ヶ月が経ち、

出来上がった壁は、
白壁土蔵の中から巨大な縄文土器が出現するという、
大胆な仕上がりに街の人たちもびっくり。

様々な反響の中で、高山市役所が

“景観を損なう”と難色を示したことから、端を発して

地元の各新聞社が大きく記事を記載し、

名古屋テレビまでが、

この景観論争のニュースを10分という大きな枠で
            報道する大騒ぎとなった事がある。

そんな縄文の壁の制作に取り掛かろうとしていた頃だった

              偶然立ち寄った地元の酒亭がある。

この酒亭、・・・・・名前は言えない。

当時、たまたま連れられて入ったカウンターでの話、

この店の店主の、やけに縄文に詳しい話が、
    これから縄文の壁を塗ろうとしている自分に

 とても興味深く、
    良い教材となった印象が強く残っていて、通い始めたのである。

聞くところによると店主は、

料亭の家に育ち、
子供の頃から「やじり狂い」と呼ばれるほど
石器等に、魅せられて、昭和46年 同志社大学に入学し、

                  考古学の研究に没頭。

その後、割烹料理の板場の修業を経て、

現在、昼は旧石器の研究をしつつ、
        夜は酒亭の店主として
             24年が経つのだという・・・・。
             
                  (第19回 藤森栄一賞 受賞)

そんな賛否両論となった縄文の壁が終わって・・・・

・・・ある日、酒亭に立ち寄ると、

店主は心得ていて、

『 専門的立場から言えば、
    理屈に合わない所はたくさんあるけれど、
     この保守的な街には、良い社会問題になったかもしれないね・・・。

それと本来、飛騨は全国でも、
         少しもひけを取らない縄文の地。

問題となった壁面は、

あなたの左官に対する情熱と、技能と、歴史を
     見事に掛け合わせた塗り壁となった訳だから、
                    何ら臆する事はない!』 

                  と、心地よい事を言ってくれる。

酒亭の夜は、22:00も過ぎると、

食事を兼ねた他の客はいったん引いて、
               ひと段落となり、

店主は、ここからが私の時間だと言って、
             一杯やり始める・・・・・。

すると、ピンと指を立てて縄文の話の続きが再び
          
             『それはなぜか?』と始まり・・・・

時に広辞苑を、まな板の上に広げながら、

一方で、手際よく刺身を目の前でさばき、

普通、食器が入っている、
      一番下の棚からは、
         色々な文献や、資料が、

料理の合間に
ゴソゴソやりながら、
       カウンターの上に差し出される・・・・。

おどろくのは、

それでも適当な資料が見当たらず、必要となると、

二階の部屋に上がり、次の資料や書物が次々と持ち出される。

カウンターに座る他の客も
      出された資料に注視して、

カウンターの端から端まで、隣へ隣へと回され、

それぞれが、それぞれの考えでものを言う、
             
            それが酒亭の話題、
                つまり、つまみになる。

どうやら二階は、
書物とやじりで埋め尽くされているのだろう・・・・。

そんな店主の酒亭は、

やがて自分にとって、
   新しい表現の挑戦の際の
        自分の知らない知識の裏づけや、

ほろ酔い気分のリラックスした会話の中で、

自分に生まれる思わぬ考え方の、
        拾い物をする事がたびたび重なり、

一人勝手な表現に自信を持つための、裏付けの場、

何か悩むと、
知らずこの酒亭に
       足を運ぶことが増えていた。

例えば、
『今度、ビートたけしさんと対談することになったんだ』

                   と話題に出すと、

次に行った時には、

過去の対談の事例をチェックしてくれていて、

そこから、
   様々な立場からの、
       たけし論が繰り広げられる。

それは、教え込まれるのではなくて、
自分の中におぼろげにあった考えを
                整理できる場なのだ。

洞爺湖サミットでテーブルを作る際、

『世界はひとつという考え方から、
    大陸が陸続きだったイメージのデザインに
       しようと思ってるんだけど・・・・』というと、

『これがデボン期の大陸の地図で…etc、etc…』と、
資料が目の前にくる。

『お前は、私たちの気付かない目線を持っているから、

これをひとつの資料として見ておいたらいい・・・・。』
                  と差し出してくれる。

そんなある日のことだった。店主が言う・・・

『これからは、なるべく 
       22:00あたりに来なさい・・・。』 と。

それを聞いて、自分は
   “ もっとゆっくり話せる時間に来なさい ”
             という意味だと、とらえていた。

・・・・・が、徐々に解ってきたのは、

この酒亭は、

この時間帯からが店主の考える、

店の表現、
 生き方を示す
  ひとつのサロンに、様変わりし、
  
      いわく、【学習割烹】という独特の顔を見せ始めるのだ。

およそ10名ほどのカウンターには、

22:00以降になると、
     店主が無言で認めた客が集まり、
           独特の店のムードが高まってくる・・・

そしてそこからは、
      ふらっと立ち寄る客は、一切のお断りに失礼。

昭和14年生まれ、

国の定める重要文化財に住み、
その昔、東京は丹下健三の下で、弟子として都市設計をしていた経歴を持ち、

今も尚 多彩な才能の世界が強いがゆえに、うまく世が渡れず、
ジャズに埋もれるような生活を続ける、劇画のような建築設計家。

2人の歯科医。

一人の先生は映画・文学好きのユーモアあふれる情熱肌で、
東京で今行われている、芝居のパンフレットを持って

酒を楽しみ、
いつも会話の中心をなす、この店の横綱。

もう一人の先生は、歌が大好き。
温厚で幅広い知識から、常に冷静な分析と判断力で、
  いわばこの店の筆頭家老といった雰囲気でゆったりと座る。

こんな人物も訪れる。
錺師(かざりし)、伝統的な仏壇や祭屋台の錺金物をつくりながらも、新たな表現の作品も数多く、つくり、日展の入選を9回もしているという、現代的な側面を持ち合わせた、伝統職人。

その他、ほぼ毎日、
着物を着て現れる、一風変わった女性教師、
80歳を超える抽象美術家の老人。
学者、オペラ歌手、写真家、登山家など・・・・・・

個性豊かな面々をあげれば、ここでは書ききれない。

店内ではいつも、店主の選ぶBGM、
基本的には70年代あたりのフォークソングが流れて、

見事な包丁さばきを目の前に、

本当においしいものは、
   小人数で内緒で食べるものだと…。
 

私の料理と、
  素材を選ぶ目に狂いは無いと自信を持っている。

映画・落語・小説・文学・郷土史・
       音楽・政治・美術・競馬・・・・・・・・と

話題は、絶える事無く続き、
    解からぬ言葉が出てくると、
          頻繁に広辞苑が開かれて、
     
             文学の古さや時代背景からひもといてゆく。

ことに考古学となると、

お品書きの黒板が突然消されて、
        講義の黒板へと変わる事もあるという・・・・が、

             まだその場面に遭遇した事は・・・・ない。

高校を出てから、
ただひたすら左官一本やりで、
職人世界にどっぷりと浸かって生きてきた・・・
                 自分のこれまで。

しかし今、そんな左官から、もう一歩外へ、
   左官ではないかもしれない、新しい≪SAKAN≫へ

広がることが出来るか?
     どうか?わからないが、

小林編集長同様、店主もまた、

《 いけるとこまで今はやるべき。》
       
           骨は拾いますからと、冗談交じりに言う。

東京から飛騨へ戻る時・・・
   よほど遅くならない限り、22時。

まず、つき出しとビールの出された、
     このカウンターに腰をおろして息をはくと、

ニヤリ、『今日も、のたうったかね』と店主の声がかかる。

【文壇カウンター学習割烹】【割烹サロン】の異名を持つ、
               
   
       この酒亭の料理と話題は、
                こよなく・・・ おいしい。