まず何があるか?といったら、体がある。

重い灰色の雲模様を、垂直に区切ったビルのにぶい反射・・・・・・。


その体が何故すごいのかと言えば 
 誰も解ることの出来ない私だけっていう痛みがあることだ。

相対する黒いガラスのビルに映る白い影。

自分の体と五感からの痛み=そこから声を発する事

区切られた空をぬって飛ぶ二羽のつばさ
              ・・・・・あれはナイフ。

心そのままに、自然や環境に反応して感情が生じる
                  ・・・・それが声。

モノクロの品川で、一度冷めて、熱くなる。

その声こそが、言葉ということであり
       言葉というのは。いわば生み出すということ。

裂けた光に影が割れて消える、体温の風の中へ・・・
        傷をつけ、傷をうける。
             自分だけにひびいている鐘の音。

でも言葉が先にあって・・・・それを学習している。

もう丸一日、口をきいていない街、
       反射から反射へ、四角い空。

というか、パクッているから、実体がなくなる。

見上げた太陽の縁取りが、
   黒く点滅するまで凝視して、ひとみを銀に焼いたあと

正しい・正しくないという基準のくだらなさを捨てる、
            自分の素直な実体にまかせるだけ。

コピーし、パッケージされた言葉

学者が言ったであるとか、

コメンテーターが言ったであるとか・・・・

パッケージされた言葉で理解しようとしているから、
                  おかしくなる。

路地を曲がるたび、別の顔と別の心に入れ替わっても、
                   また戻ればいい。

だから言葉は、その体から発していかなければダメ。

照りつける太陽の空からおりる、白透明のわれる音。

さまよいさまよっているから発見がある。

この 傷をうけ、
       傷をつけた姿に、
             誰もきづかないのか?

そこに本当の叫びと、
        言葉があるのではなかったか?