最近、1990年西部劇映画の、
『ダンス ウィズ ウルブズ』を観た。

この物語は、
1863年秋のテネシー州での南北戦争が舞台になっていて、

北軍の中尉であったダンバー(ケビン・コスナー)が、
失われる前のフロンティアを見ておきたいという思いから、
一人軍を離れて、荒れ果てた荒野で自給自足の生活を始める。


そのうちに、
先住民族のスー族というインディアンと
徐々に交流を持ち始めて、友好を深め、

インディアンとのふれあいの中、
自己の存在や誇りを再確認し、スー族の青い目の女性、
『拳を握って立つ女』と愛し合うようになってゆく・・・。

しかし、
インディアンの大量虐殺を目論む、合衆国軍に追われるようになり、
スー族との別れを決意し,
愛する妻を伴って、雪山の奥深くへと分け入っていく・・・。
という内容であった。

この映画を観終わった時、
何か自分が心豊かになりつつも『では、お前ならどうする?』
と考え続けてしまう中味があった。

それが、

『拳を握って立つ女』というような、

登場するスー族の個々の人物の名前にある。

映画の中で、スー族の首長の名前は・・・・・『十頭の熊』
首長のNO,2である人物の名前は・・・・・・『蹴る鳥』
若い青年の名前は、『風になびく髪』

そしてダンバーはやがて、スー族からこう呼ばれる。

『狼と踊る男』と・・・。

それは、名前1つに自分の決意や、
願いや・・・・

一瞬の偶然を焼き付けて、
      自分の運命を受け入れてゆくような・・・・・・。

・・・では、もしも自分なら、
どんな名前を与え、また、どんな名前を自分に付けるだろうか。


「血の流れる樹」

「空を射つ枝」

「静脈の花」

「月に射貫かれた影」

「夢見る炎」

「結ぶ雨と折れた花」

「雨と草の間」

「鳴く砂利と蟻」

「その声を聴け」

「憎しみと悲しみを石に変える男」

「銀の瞳を持つ男と黒い瞳を持つ女」

「氷の中の枯葉」

「泥に眠る男」

「光を斬る爪」

「風を操る笛」

「雷(いかずち)を閉じ込めた箱」

「十の眠りで包む女」

「獣の脚と叫びの矢」

「群青(あお)と銀と赤の鎧」・・・・・

飛騨には
朝廷に歯向かった英雄、
二つの顔を持つ両面宿儺(りょうめんすくな)
                     の伝説があり、

奈良 興福寺の阿修羅像は、
三面六手の多面体であるように、
1つの自分の中に、いくつもの自分を、
 又はいくつもの考えを膨らまし、見出す事が出来るだろうか。

そしてそれは、自然と個人の約束事のようにも思えないでもない。