8月7日、東京お茶水、久しぶりに小林氏と2人食事をしながら、いろいろ話すことが出来た。
その前に・・・。
元々セメントの左官であった自分が、30才も過ぎた10年そこそこで、今では様々な取材が訪れるような左官に変貌したのは、この小林氏との出会いが
決定的なものになっているのは言うまでもない。


小林氏は左官の職人ではない。「月刊 左官教室」という雑誌の編集長という立場から、塗り壁の文化を通して、様々な土地に根付いていた素朴で美しい物の姿を、誰もが見失ってしまっている視線で、激しさと優しさにあふれた言葉を使い、現代批判をして来た人だと言って良いと思う。
当時30才、人間的にもねじれ狂っていた自分が、この小林氏の言葉に
どれほど救われ、夢を描き、立ち直るきっかけを与えてくれた事か判らない。

彼の言葉をファイルし、いつも枕元に置き、繰り返し繰り返し、眠くなるまで読み続けていた頃は、翌日カベを塗ってみると、みるみる自分の腕が上達しているような、何かの術にかけられた様なそんな感覚さえあった。  そうして、今に至れた事を思うと本当に奇跡のようである。

そんな小林氏との話の中で、最近の自分がどんなに壁を考えデザインし、これまでにない新たな塗り壁を作り上げても、なぜか以前の様な心からの感動がなく、
どこかがさめていて、つまらなくなってしまっていると・・・・。

それに対し、洋館を作ろうと自然の中で名もない草や木を植え、石を積み、池を作り、その中で考える左官は実に楽しく力がみなぎってくる感覚になっている。
左官とは、もしかしたら、自分のほんの一部にあるだけで、
塗り壁が左官の全てではない・・・という疑問を感じている。
ある意味で、もっともっと、この左官を大きくとらえるならば、技能や道具を駆使し、より緻密に一つの深みを極めようと向かっていくのではなく、塗り壁は左官のほんの一部にしか過ぎないと思える様な、広がりのような感覚であって、
でもそれは自分が左官から離れていくことにつながるような、  ・・・しかし反面、
自分が左官という道具を使って別の世界に進もうとしているのかも知れず・・・

・・・ そして、そして・・・  「小林さん、俺、解からないんだ」 とそんな話になった。

無理にがんばろうとすればするほどに、何かいやな人間のエゴの様な自分を感じてしまう・・・。小林氏はうなずきながら、
「もうそんな事を思うようになったのか?早いね・・・」と言って笑っていた。
そしてそれは、すでに一つの哲学であり、秀平の考えている事は・・・と、伝統的な塗り壁にたとえてこう話した

確かにわびさびを求めた茶室の土壁のように、何の変哲もない一枚の〔塗り壁〕に我々の先人は多様な道具や工法を生み出し、素材を吟味してその完成度を行き着く所まで高めてきた。
でもそれは、終わってしまったと言う見方も出来る。死んでいるとも言えるんだ・・・。

秀平は言葉を通じて左官をしたり、これまでにない新しい左官を展開して
ここまで来たのだから自由にやってもいいのだと・・・・。

そして、秀平、お前はもともと左官ではないのかも知れない・・・
 そして小林氏自身が俺もたまたま左官を通して生きてきただけだから、
左官ではないのかも知れないね・・・と。

そんな会話をしながらも、実はこんな話を持ち出すこと自体、
自分にとってはとても勇気のいることでもあった・・・・。

というのは、これまで、小林氏の示す左官の世界を通じて、成長することが出来た自分が
左官を否定し、つまらないという思いを伝えているわけであり・・・。
最も尊敬する小林氏が自分のこの思いを不快として感じたらどうしよう?・・・
しかし、
小林氏の表情からは、けげんそうなものを一切感じなかった事にホッと胸をなでおろしてもいた。
 
時間は、あっという間に過ぎ去り、店を出た。
思いを伝え、会話した事で、つかえていた気持ちは少しは軽くなったものの、結局、答えは見出せなかった。ただ、小林氏の言った、「ひとつの哲学」をやっている・・・。
確かに、幼稚な哲学かもしれない・・・そんなこと考える必要はないと人は言うかもしれない・・・。

しかし、ひとつの自分流の思いをもって左官を続けてきた自分には、それが重要不可欠であり、背骨だと思っている。
なぜなら、この飛騨でセメントの世界から土を使って今に至るまで、
自分には技能的な師も表現的な師もいなかったから・・・。
その分、信じる思い、こうやるんだ!という理由(わけ)のある目的が、これまでの自分を支えてきた基盤となっているのは確かであり、
・・・だからこそ、自分の世界をイメージする。
信じる思い「ひとつの哲学」が必要なのだ。