あの、神戸の家の話を聞いてから・・・・・
まだ、正式に依頼された訳ではないにせよ、
実際にこれが現実となり、いざとなればやはり、
心の内側では、
おいおい、大丈夫なのか・・・?その母親を納得させられるのか・・・?と、自分の内から不安の声が聞こえてくる。
せっかちなのか、臆病だからか?
知らず頭の中がどうしたらいいものかと勝手に動き回って止まらない。
《物をつくらない物づくりを》…左官礼讃、文中から…
物をつくる事ではなく、自然の贈り物を受け取ること。
たぶん、
左官塗りがこれからの建築の中で、
なにか未来に頼む事があるとしたら、
塗り壁の技術が物をつくることではなく、
自然の贈り物を受け取ることにあろう・・・・
自分ではなく、自然が仕上げる壁を立ち上げる・・・
『立ち上がる泥壁』。
・・・そんな考えが今、頭の中でおぼろげに浮かんでいる。
まず、山を探そう・・・
遠く離れた山の中にある、雑木林の陽射し、
しぼり水の集まった清水。小さな谷間のあるところを・・・・
そんな場所に、一時的なものでいい。
4本の丸太を建てて、雨がしのげる程度の仮屋根を造る、
壁はない。
そしてその屋根の地べたに4つの木枠を置き、
四季を想わせる四色の土に、砂や砂利を混ぜ合わせ、
自分の職人としての精一杯の勘を生かし、
木枠の中にその泥を流すのだ・・・。
春には・・・新緑、薄いグリーンの浅黄土を・・・
夏には・・・目の覚めるような鮮やかな黄土を・・・
秋には・・・燃えるような紅葉を想わせる赤い谷の土を・・・
冬には・・・厳冬の氷点下、白土と水色の土で
マーブルに流し、山を降りる。
そうして数日間置き・・・
再び山中に戻れば、
完全に乾燥した木枠の中のそれぞれの泥には、
風が運んできた埋もれかけの木の葉や、
小さな鳥の足跡が残っているかも知れない。
そして大きく亀甲に入った泥のひび割れが、
その木枠の中に、クッキリと出来上がっているに違いない・・・・!?
それは、自然を受けとる行為だから
最初から上手くはいかないかも知れない・・・
しかし、必ず出来る、気に入るまで何回も繰り返せばいい。
それで出来上がった木枠の壁は、
確かに自分の操作ではあっても、その結果は自分でも予測できない
自然の光や空気や風が作り上げた贈り物だと言える、
それは、
自分自身はただその設定をしただけに過ぎないからである。
ひび割れは呼吸の証=生きている。
一般に住宅の塗り壁とは、
垂直に建った柱間の壁面を埋めてゆくものだけれど、
この四季を現すひび割れの木枠は=今、病室のベッドで横たわる子供と同じ状態であり、木枠の中で自然に横になったまま形作られ、
それが神戸の家で、彼の寝室である空間として立ち上がる・・・。
《早く立ち上がって来なさい》という願いであると、
置き換えたい・・・。
飛騨の山中でひび割れた、
この4枚の泥の木枠は言い替えるなら、そのものの自然であり、
一つ一つが、小さな風景、世界であると思うのだ。
これを神戸まで運び、四季を一対とし、
その廻りを自分が現場で補助的に塗り込めれば
それが自分であって自分でない、
最も納得のいく自然の形=良い形のように思えてならない・・・。