数日前、

ある相談を受けて名古屋に向かった。
今、名古屋駅周辺は、
3つの超高層ビルが同時に建設中で

その相談というのは、
その建て替え前にあった床の、復元をしたいのだが、

素材となっている(砕石)が無くて
困っているのだと言う。

その床は、左官技能で言う、


《研ぎ出し仕上げ》と呼ばれるもので

着色したセメントの中に、
様々な天然色石(砂利)を、砕いたものを混ぜ合わせて床に塗る。

そうして
セメントが固まってから、表面を研磨して
石のような人工的な床を作り上げると言うものである。

自分は25年前に数回程度
この《研ぎ出し仕上げ》を手がけたことがあるが
それ以前は、耐久性があって美しく
学校の廊下や、手洗い場、手術室の床などに
よく用いられていた。

今でも、都内の古い地下通路などに時折見られたり
銀座の古い洋食レストランにも残っている。

上手く仕上げられた研ぎ出しは
やがて天然大理石よりも味わいを深め

固い仕上げなのに、
なにか、靴底から
人肌っぽい、はんなりした感じが伝わってくる。
時間と言うか、生活が染み込んでいるような感覚に誘われるのだ。

ひところは、砕石の種類がとても豊富で
砕石の大小や種類をブレンドし、セメントの色合いも自由自在。
砕石一つひとつにに地域柄があって、名前があった

《小桜》《白鷹》《蛇紋》《カナリヤ》《美濃黒》などなど。

それで今回

それ以外の、
もっと沢山あったはずの数種が手に入らないというのだ。

素材がないという話は
手づくりしている職人世界では
今や、職種に関係なく頻繁で、
去年まであったものが消えているのは、
ぜんぜん珍しい話ではない。

素材を採取する職人が消えたか、会社が廃業したか。

たぶん仲介業者の経済的理由から
一般的に需要のある物しか在庫に置かなくなったり
設計者や職人も安く早くが前提にある程に

使い慣れた、
使い勝手のいい、
ことに無難なお決まりの素材で
時間短縮と、万が一のリスクを避けて、それ以外の素材を使わない。

そうしているうちに仲介業者や人々の記憶から消え
眼に触れる場に置かれなくなっただけで、
素材自体が消えたわけではない場合も多い。

ある意味で
極めて個性の強いもの、
一見なんでもないが深い味わいがあるもの
そうした素材から忘れ去られてしまう。
そして消える。

やがて
一袋40キロの砕石が、突然数倍以上の値段に跳ね上がり
一般の手からは離れて、簡単に手に入らない高級な素材になる。
そして後は、大量生産されている素材が全国に置かれるという流れだ。

名古屋の現場設計管理室で
元々あった古い研ぎ出しに入っている砕石を眺め
写真に収めて、地元に戻った。

・・・・・その日

駅から直行して
いつもの酒場のカウンターについて一息吐くと、

店主が
「ほう、今日はやけに早いが、また何かあったかね」

それで、これこれこうでと、今日の名古屋の大筋を話すと
「なるほど、じゃあ今日は、味噌田楽あたり食べてみたら・・・・」と言う。

白味噌と若い山椒の葉をたっぷり擦り込んで
小さく切った豆腐にこんもり載せて、串に刺して軽く焼く。

皿に6本並んで軽く焦げ目のついた、
味噌田楽をパクっとほおばると

口の中で山椒の強い香りが充満して、
潔く鼻から抜けて
なんとも気品ある味と、
すんなり混ざり合う柔らかさに

俺、「ん?・・・・美味い」の一言。

すると店主、「ね、いいでしょ」

「でも秀平さん、その串見てよ」と言いながら

後ろの棚から数本の別の串を取りだして
カウンターの上に置いて見せた。

「その串、6年くらい前に買った物で、もう残り数本でね、」

「これは、その3年後くらいのもの」

「いま食べた串は、つい最近、いつもの所で買った物なんだけど」

「もう一目瞭然、全然違うでしょ、この串、
残り少ない数本だからもったいなくて、
こうしてとっているんだけど・・・・
特別でもないけれど、でもいいでしょ!ここまでで本当の味なんだよ」

一方で今の串、
「美意識がないと言うか、職人じゃないと言うか
気が利いてないと言うか、だらしないと言うか」
・・・・・ね。

直ぐ俺、

「あれれ、この3本の串、なんだこれ
精度も、見た目も、技術も、精神もまったく別物だね。」

「プライドがないと言うか、堕落してしまったと言うか
奥深さが消えたと言うか、どうでもいい仕事になったと言うか、
この丁寧な職人は生きられなかったと言うか、
日本はここが最高だったと思い知らされたと言うか。」

店主

「でもね、もう普通に手に入らないんですよ、あの串、
こっちは料亭じゃないんだから、
まさかそれ探し求めて、歩く訳にもいかないでしょ」

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それにしても
見事に世の中をあらわしているこの串。

見るところこの串は、
一本一本手づくりではなさそうだが
機械を使っているにしても、こだわりを持って
何処かの誰かが、作り続けているだろうにしても

こうして現実、
飛騨高山の居酒屋割烹の店主の手元には届かない。

思うのは

安いもの
早いもの
簡略化したもの
複雑化したもの

そして
高級なもの
贅沢なもの

それらは世の中に溢れているけれど

身の回りに溢れてあった
最高なものが消えている。

それらは高級ではない、最高なものなのだ。