文化交流使として、
40日NYに行ったとき
12人の職人衆に留守の間の仕事の指示や
準備などの疲れから

NY初日?7日間、ぐったり横になっていたことを思い出す。


近ごろは
何かと忙しさが増し続けて、
身体や神経を緩ませる事が
いかに大切かを感じるようになっている。

どんな仕事も断りたくない性分。

仕事は、強烈な自己主張もするけれど

基本的に、仕事依頼者を満足させたいと思っている
もっと、自己主張の強い方かと思っていたので意外でした。
よくそんな言葉をもらう。

アーティストと職人の違いは
前者は、まず自分の主張を通したいのに対し

自分は
相手が望むものを探したいという気持ちが一番に来る。
良いものを生み出すためのエネルギーは
まず相手を好きになる心の場所にあると思っている。

望みに応える
相手の望みを探す
人を想うとは、疲れるものだと思う。

そして、

人を信じて
伝わらないほど消耗してしまう事はない。

さてさて、
疲れるに対して、
休むことの大切さを感じるこの頃なのだが

休むとは
どうやって自分に仕事を忘れさせるか にあって

疲れは、
どんなに休日を作ったところで
考えている限り休まってはいないのだとわかる。

そんな繰り返しばかりで
仕事を忘れさせる難しさを思う。

それにしても、

休むことが難しいなんて
それに苦心するなんて、なんと妙なことだと
自分を推理しながら【休む・ゆるむ】を考えなければならなくなっている。

まったくどうなったのか
いざ、休むって難しい・・・・

ただ、休まなければ
良い仕事、柔軟な想像に繋がらない。

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さて、どうやって
自分をぼんやり、のんびりと緩ませるか

一人の場合がいいときと、悪いときと
それは常に風向きのように変化する
厄介なものである

今年の春には
一人になるほど、分からぬものに集中し
仕事を超えた鬼気とした領域に迷い込んで
抜けられなくなり

なにか
自分の熱が過剰に膨らんで調整できず
もう、もとに戻れないないような不安にかられて
どうしたら緩められるか
すがるような気持ちにさいなまれた。

5月の終わり

引き出しの奥にしまってある3年前の花火を思い出した
花火といっても
コンビニに並ぶ子供用の
取るに足らない花火だが、

実は、冬にひとり花火をすることがあって
夏の終わりに買い置きして、
しまっておいた花火に火をつけて見た。

季節はずれの
湿気った古い花火は不規則な火花を散らして

色とりどりの火花を見つめて消えると
闇の眼に残像がしばらく残って

自分に溜っている
忘れていい物を消してくれるようで
少し頭が軽くなって
火薬の匂いに、ぼんやり身体がゆるむような気がした。

子供の頃の鮮明な記憶がよみがえる。

夜空にヒュ?っドン・バチバチバチと響く
夏の花火が嫌で仕方がなかった。

中学2年頃まで、
ヒュ?ッとあがる音に背筋を寒くし
ドンと弾けるたびに胸が怯え
バチバチと流れる音に恐れを覚えて
花火の夜は家から出たくなかった俺。

さすがに今は大丈夫だが
ドキドキする感覚が多少蘇る。
秀平組を立ち上げてから
皆で地元の花火大会をでブルーシートを広げて
眺めたことがある。

少し酔って
仰向けに転がって、

夜空にヒュ?っドン・バチバチバチと響く花火の
空に流れる煙を追いかけて

その音に胸が打たれて砕かれているのが心地よく

火薬の匂いに包まれて・・・

いつの間にか、眠ってしまっていた。

休むとは、

自分がゆるんでいる時間を作ること。

けど、いざ、休むって難しい

この文を書き終えて
昨日、コンビニの子供用ではない花火を
冬の分まで買い入れた。

今年も花火の季節がくる。

この夏は、

仰向けの花火を眺めていたいと思っている。