内山節

数字は、
具体的な一面と抽象的な性格とを、併せもっている。

たとえば
「ご家族は何人ですか」
と聞かれたときに答える数字は具体的な数字だ。


                       

ところが
日本の人口についての数字は抽象的である。
何人いるのが好ましいのかは誰にもわからない。

スウェーデンやフィンランドのように
広い自然を享受しながら暮らすのが理想なら、
人口はもっと少なくてもいいような気がするし、
増えていかないと市場が拡大しないと焦る人たちもいるだろう。

この場合でも
何人まで増えたり減ったりするのが理想なのかは、よくわからない。

お金もそうで、
日々の生活のなかで使われているのは具体的な数字だ。

ところが
「いくらあったら人間は幸せになれるのか」
などと聞かれたら、たちまち数字は具体性を失う。

私の新年は、毎年群馬県の上野村で迎えられる。

山から朝日がさして正月がはじまり、
年末についた餅が食卓に上がる。

庭に冬の鳥たちが姿をみせ、
葉を落とした山の木々が私の暮らす里を包んでいる。

昼すぎには私も近所に新年のあいさつに出かけ、
逆に村人が訪ねてきたりする。
自然も人間も、
さらに昔からこの村にまつられている神々も、ともに新年を迎える。

毎年繰り返される何ということもない時間なのに、
ともに新年を迎えることができたという安堵感があり、
毎年の村の無事を祈る気持ちが村のなかには広がっている。

そこにあるのは数字ではとらえられない世界だ。

その代わり、
どんな結び合いの中に村の暮らしがあるかは、はっきりみえている。
自然との結びつき、村人や村の伝統文化との結びつき。
そういうなかに自分たちの暮らす世界のあることが。

考えてみれば、
人間の幸せや充実感といったものは、
すべて数字では表せないものだ。

数字は相対的なものだが、
幸せや充実感は、
それぞれの人々にとって絶対的なものだからである。
だから高尚なものはすべて数字では表せない。

美は数字ではないし、
音楽や文学からえた感動も数字ではない。

とすると成熟した社会とは、

数字を追いかける社会から、
数字では表せないものを大切にする社会への転換によって、
生まれるのではないだろうか。

幸せ感や生の充実感の高い社会が、
成熟した社会のはずだからである。

こんな視点からみていくと、いまの政治の主張は情けない。

数字ばかりなのである。

GDP六百兆円とか、2%のインフレとか、一億総活躍とか。

それが幸せな社会とはなにかも考察されることなく、
数字だけが花火のように打ち上げられていく。

今年は、
数字では表せないものを大切にする社会をつくりたいものだ。

どんな結び合いが幸せをつくっていくのか。

自然が支えてくれていると感じられるような社会は、
どうやったらつくれるのか。
どんな働き方ができたら、充実感を手に入れることができるのか。
それは広い意味でのコミュニティーの課題である。

家族というコミュニティー、
友人や仲間たちというコミュニティー、
働く仲間のコミュニティー、自然を含めた地域のコミュニティー。

そういうものが人々に幸せをもたらすとするなら、
結び合いやコミュニティーを大事にする社会を、
私たちはつくっていかなければならないのだろう。

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1月の、この新聞記事がとても腑に落ちて
ずっとカバンの中に持っていた。

(上記、記事全文)

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あらためて

考えてみれば、
人間の幸せや充実感といったものは、
すべて数字では表せないものだ。

数字は相対的なものだが、
幸せや充実感は、
それぞれの人々にとって絶対的なものだからである。
だから高尚なものはすべて数字では表せない。

美は数字ではないし、
音楽や文学からえた感動も数字ではない。

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この内山節さんの素晴らしいメッセージ。

我々左官の本質も、
数字では表せないところに魅力がある

大いに充実しているものは
空っぽのように見えると言うが、

こうした
この数字では表せないはずの自分達の魅力を

数字にかえて
数値の世界の土俵に立って伝えようとするほど
勘違いしている行為はない。

数値で健康を表したり
数値で耐久性を表したりする中にあって

我々の仕事は数字で
とらえられない場所で生きているのであり
言葉にも置きかえられない幸せ感であることをことを
まず自分に強く知っておかなければならない。