世の中のスピードは、日を追うごとに加速して
追われ、追いかける毎日が否応なく過ぎてゆく


期日優先の建設現場では
ひとつでも多く、一歩でも前へ、
手を止めるな、休まず、次へ次へと急げ。
振り返ると
九州での職人修行時代からずっと
そんな精神を叩き込まれてきた。

最近は
濃密な仕事依頼に時を忘れて入り込んでゆく
特に新しい領域では緊張感から思考が止まることがない

そうした時間は、
充実しているように思う。

限られた時間で、
とても長い距離を走ったように思う。

そうして、ひとつ終わって、
その結果を眺めていると
結果だけがポツンと
自分から離れたところにあって
自分なのに、自分に遠い感覚がある。

感覚は残っている
けれどそれは点線のように途切れ途切れで
強い印象があっても実感が薄いのだ。

この妙な
終わった直後から記憶をさがすような感覚。

たぶんそれは
追いかけ追われた二重の身体になっていて
一重が先に走り一重が追いかけ重なって
二重一体となったときの記憶しか
思い出せないのだろう。

確かに自分がやったに違いないのに・・・
記憶は途切れた映像で残っていて、肌合いが遠い。

それをふっとさみしいと思う
そのあと、妙な怖さにさいなまれる。

数日前の朝だった
樹林にいると、サッと陽が差し込んできて
その光が、
昨日までと違う明るさを持った
新しいひかりであることを感じながら
その場を後にした。

しばらくして、
あれは冬から春に変わった瞬間だったのだと思うとき
あの輝きに立ち会っていながら
その場を見切って立ち去っていた自分。

本当の充実とは、
終わったそのあとも、取り出して実感出来なければ
その価値も半減してしまうように思う。

こう言うといやらしいかもしれないが
なにより
自分の命にもったいなかったと
しみじみ思うのだ。

息子と酌み交わす盃に揺れている酒。
山の雪解けは幹の根元の輪が広がって消えゆくこと。
田植え前の水田を打つ、無数の雨の波紋。
芽、蕾、種までをもって花があること。

ますます早まる流れの中で
確かな実感が安心を生み
心を許せる人との時間となる
ひとつひとつ生まれる現象の渦をとらえて
肌合いのあるまなざしを意識していたい。

たぶん実感のある肌合いを
いつでも自分に取り出せることが
神経のバランスを保ち
きっと自分を安心に導いてくれるのだろうと思う。