詳しく書くことは出来ないけれど

最近、いくつかの命の話し、
命の叫びを直に受けとめる事があった。

いずれも、
それをどうして俺に?と思う内容だったが

やはり
本当の叫びを軽くかわすことは出来ず
自分に出来る範囲で応えた。


思えば
こういった、魂の叫びを受ける事、向き合う事が
自分の人生には、時折訪れることがあるものだと
振り返りながら

同時に、
世に言うスピリチュアルではない、
実体としての気力と言うものがある

やはり人間には《気》のやりとりと言うものがあるのではないかと思う。

そのやりとりは
一方から放出してひたすら渡しているもの
ふたつの気が、お互いを補うもの
噛み合わず、傷だけが残るもの
などなど、あるような・・・

特に【命の叫び】を受けたとき

自分がその叫びに対して通じる気を燃やしながら

自分自体を支える為の熱を
別に燃やし全身に放出している

やがて
自分を支える過剰な熱が止まらなくなる
そして止まらない熱に疲れてしまう。

そう言えばと、
強い叫びを受けたときは
いつも、そんな現象が自分に起きてきたように思う。

数日前の休日。

止まらない手と足に帯びた熱に疲れて

言葉にならない気だるさに
湯にでも浸かってみようと
地元ホテルの露天風呂でのことだった。

大きな川石で組まれた湯で
ゆっくり温まって
しばらく風に吹かれてみる
そして、また温まる

湯から上がった床は冷たい鉄平石

その先に
いくつかの緑系の
大きな丸みを帯びた川石があって
両手を着いて
タオルを敷いて座っていた。

すると
手の平の真ん中から、足の土踏まずから

それは光線のようなイメージで
自分の熱を石が吸い込んでゆく・・・・

映像が見えるような気がした。

手を着いていた石が、
自分と同じ温度になると
また湯につかった。

いつもは、15分も風呂にいたら良いところなのに
1時間以上、そんなことを繰り返していた。

その夜、気づいた。

身体に淀んだ、生々しい熱が薄らいでいるのである。

もしかしたら
あの時、身体に取り込んだ天然の熱と
自分の熱と合わせて、冷たい石が吸い込んでくれたのでは?
それを繰り返して
自分の熱を石に移し、自然の熱を受け取ったのでは?

自分の熱を自然へ、自然の熱が自分へ。

思うのは、
人と人の関係だけでは、人は疲れてしまう
【 人ー自然ー人 】
人と人との間をつなぐのも自然だと。

お互いを補える、ふたつの気を持って
その間に自然を置いて繋がれば
そこに本当の優しい温度があるような・・・・
素晴らしい言葉や創造が生まれるのでは・・・・

ふっと、そんな事を思った。

いや、身をもって知った。