去年、本を出版するといいながら、
なかなか出来上がらず
自分自身も待ちつづけている。

いつ出るの、と
聞かれる時があるが、苦笑いしながら
もうすぐ出るはずだけどと答えて、いつなのかは、まだ解らない。

タイトルは「ひりつく色」

このブログを抜粋して書き足し、
原稿は預けてあるのだが・・・・・・


内容は25篇あって、
そのうち《江戸屋萬蔵》 の3編は、
新たな、俺と萬蔵との時代を超えたロマンの物語。

書いているとき
これだけで一冊になってしまうほど、想像力が働いて、
まとめきれなくなって脱線し、とても苦労したが力作になっている。

萬蔵については、もっと膨らませたい新発見もあって
いつかの新しい夢を持てたかもしれない。

さて

自分が文を書くようになったのは
小林さんの著書《左官礼讃》を枕元に置いて
わからない言葉があっても、理解をあとにして
読んでいた事にあると思っている。

小林さんの、無名の哲学といえる言葉には

なにか身近に繰り返している
波や雨や雪のような音があって

静かに囁いていながら
追いかけるほど残響となって
遠くなってゆく声があり

微細な囁きは、いつの間にか、
もう戻れない乾いた砂に立っていて
風景と同化しながら消えてしまうような・・・

小林哲学は、
優しいようでいて、だんだん深くなり
ジワジワと後から怖くなる、言葉の力があるのだ。

そんな文章に到底、及ぶことはないにしても
なんとか自分流に
少しでも思いを文字に変えて
そこに音や声を持てたなら・・・

いつしか、そんなことを思うようになって・・・・

このブログ遠笛は、そんな憧れがはじまりであった。

文を書いてきて、
いつもイメージしていたのは
意味より音、音から色、色から肌があって欲しいこと。

最初は
それが自分にとって成立していれば、人にわからなくてもよかった。

そんな意識から
独りよがりな文が結構ある。

一方で、文章力がないから
ひたすら真っ直ぐに、心裸になって言葉に表すか
読む人が読めば、
顔を覆いたくなるような文もたくさんあるように思う。

時間が経って読み返すと
自分でも恥ずかしいと思う時があるけれど
文は、これが今の俺一杯なんだと解らせて、
客観視出来るところもある。

独りよがりに、自己嫌悪に落ちいりながら
それでも書きたい自分が、なぜかずっとあった。
ただ、知識も言葉も不十分だから、

何処まで心裸になれるか
いまの自分に、どれだけ素直になれるか
それを文字に写せるかを持続出来た訳は

職人が口下手で黙っているのに対して
時代はどんどん移り変り
結局、希望とか未来を描けない。
その職人の哀しさの中で
せめて、喜びや楽しみを、悲しみを書き残しておきたい。

地域の中では、自分を縛っていなければならないことも含めて
そんな気持ちが心の奥底にある事は確かである。

言葉の力、文字の永遠の力を
知れば知るほどに、書き続けてゆく力になった。
文字にすることで、どれだけ救われたか解らない
どれだけ叫びを回避出来たか解らない。

はじめての本は《のたうつ者》で
感情のままに、書き溜めていた長い日記と記録を
編集者が繋いで出来たものだった。

物語三部作の
《青と琥珀》・《歓待の西洋室物語》・《光のむこう》は、
音や色を何処まで言葉にできるかという
夢あるチャレンジだった。

《生きる力》
これはほぼ、編集者にまかせた。

それで、
今回の「ひりつく色」は、
自分で考え、選択し、自分の言葉として書き上げた本となる。

あらためて
新鮮に考えると、
自分の言葉のままで、本が生まれること。

原点に立ち返れば、
俺が本を出せるという不思議を思う。

この先の自分に
本を出すようなことは、
もうないかもしれないとも思うと

ブロク《遠笛》をはじめてから
最も古い文は1999年から、書きつづけた結果の一冊の本。

《ひりつく色》

人生にそんな本が出せること。

その本を
この手に取ることが、待ち遠しくて仕方がない。