数日前、ひとりの左官が死んだ。

その知らせを聞いたのは、葬儀が終わったあとだった。

その左官は、自分に土の入り口を開いてくれた人
          キッカケを作ってくれた恩人だったと思っている

            出会ったのは、ちょうど30歳になった頃だった。


ある現場で
一日だけ一緒になって、
        ボロボロのプレハブを左官研究所などと言っていた俺

地元の土を探し集めて、
ただの木枠に、まったく独流、(土、砂、藁を混ぜて塗った) 
中途半端な試作があるだけ、

物置のようなプレハブ小屋の
名ばかりの研究所を案内して

実は俺、土壁の基本を何も知らないから
ただ、こうして塗っているだけなんですと

              苦笑いしながら、別れた。

翌週、日曜日の午前だった。
研究所に行くと、そこに左官がいるのである。

突然の訪問に驚いて聞くと、『ちょっと遊びに来ただけだ』という

名刺には【渡り職人】と肩書きがあって
             一日、左官技能の話に花を咲かせて帰って行く。

次の日曜日。

まさかと思いつつ、少し早めに研究所に行くと、また左官はいた。

何時にここに着いたのですか?と聞くと
『もう、朝6:00からいるよ』 

左官は
名古屋から2時間30分の道のりを
             車で走ってきているのだった。

あれこれと、
もっぱら基本的な事を一日習い、一泊してもらう

技能の話は、
朝から晩まで、深夜0時まで続いて、
聞いている俺は、いつの間にやらコクリコクリと眠ってしまう

左官が、

何歳なのか?
生まれは何処なのか?
家族はいるのか?

なにも言わず、聞けず、
     そんな隙間など一切ない左官の話は
              日曜日の度に2ヶ月ほど続いた。

・・・そんな左官には、ひとつの夢があった・・・。

【本漆喰の黒磨き】という一度、途絶えてしまった左官技能の復活と追求。

※【漆喰黒磨き】とは、
 日本の土蔵の扉。観音扉という両開きの内側の土壁に
 (石灰、海藻のり、麻の繊維)で作った漆喰を塗り、
 その上に墨と石灰と海藻糊で作った材料(黒ノロ)塗る。
 材料、道具=鏝(鏝は鉄の質(地金、半焼き、本焼、ハガネ))を使い分け
 雲母や、砥の粉を使って、最後は、手のひらで磨き上げる。

 すると、黒い壁は壁は鏡面のようにひかり、一日一枚が限度。

しかし硬く強く、

 100年が経っても黒い輝きを失わないという、
 左官究極の仕事のひとつ。
(到底文字にはできないタイミング、微妙な配合・・・そして謎。)

少なくとも25年という歳月を、
       この黒磨きの追求にそそぎ、その左官はこの世を去った。

今から14?15年前。

その左官から電話がかかって来て興奮気味に、こう言う

新潟の土蔵をあちこち巡っていたらなあ、
見事な黒磨きがあって
その持ち主といろいろ話していたら、この黒磨きをやった職人が
80歳を超えて引退してしまっているんだけど、
まだ生きているって言うんだ。

それで直ぐ会いに行くと、
多少、耳は遠いんだけど、頭はまだしっかりしていて
そのやり方は良いとか、
この墨は質が悪いとか、この石灰は光らないだとか、
いろいろ教えてくれるんだよ。
すごいんだよ、たいしたもんなんだよ。

それで、これが最後のチャンスかもしれないから
この老左官を招いて、4?5日間の勉強会を開きたいと思うんだが
                お前も、来ておいた方がいいぞお?・・・

数日後、

【壁を磨いて、腕の錆を落とす学習会】と題されて
      各自、自分で、漆喰下地の土壁を持参するように、
                という案内状が届き新潟まで車で走った。

今の俺の黒磨きの工法や知識は、
         この時の老左官と左官の流儀で教えられたものである。

左官は、この老左官の黒磨きの方法を軸として、
目指す黒への情熱を注ぎ続ける。

しかし、一旦の完成は出来るものの、
どうしても納得のいかない問題点が、ひとつふたつ出てきて
ひとつの問題が、いくつもの疑問を浮き上がらせる

老左官の話も聞けなくなり、
       左官は、それでも諦めず黒磨きの夢を追い続けた。

✳︎黒ノロは作ってから3年じゃなく、10年は寝かせないとダメかもな?
✳︎現場はないけど、
 私的な講習会とかやって欲しいっていうのがあって
 そういうので、黒のいろんな試しもできるから、そんなとこだよ。
✳︎いま、黒にあいそうな鏝があるんだけど、高くって買えねえよ?
✳︎土蔵の新築の見積もり依頼があるんだけどな、
 競争相手の値段はこっちの二分の一だから、
           取られてしまって黒どころじゃねえよ。
✳︎仕事がなくてなあ、だから黒の研究だってできないよ
✳︎どんなに腕や思いがあっても、
 でも 結局は、それを見極めてくれる人がいないんだから
                 黒も職人も残ることは難しいよ
✳︎しばらく体を壊して退院したんだけど黒は体力がいるし、
 道具だって錆入れられないから手入れしなきゃなんねえし、
 この間、少し黒ノロは作ってはみたけどなあ、金もねえしなあ
 今は少し畑仕事をしたり(笑)・・・
 まあ、やり出しゃ畑も楽しいもんだぞお

ここ10年近くは、
年に3?4度、元気ですかと電話をする程度だった俺

たぶん俺がメディアに取り上げられたり、
新しい左官の表現を、はじめたあたりから、
黒を突き詰めている左官からすれば、
道を外しているように見えたかもしれない。

しかし俺も、

同じ黒を習い、今も黒に憧れ

黒が如何に、
   究極の日本の塗り壁であることを
                知っている一人である時

世の中の言葉。

大丈夫だよ、必ず本物は残るから
本物は廃れることはなく、必ず求められる時代が来るから・・・・

                   と、綺麗な言葉をかけられる時

俺の中に
どうにもならぬ
どうにも収められない塊が、身体中に膨れあがる。

【本物は残る】という
         むしろ、秒読みのような言葉の宣告に

左官に、畑を耕している時間はなかったはずだ
またひとつ黒への道は遠ざかり
またひとつ職人たる気質が消えた。

もしも、いつか化学的な要素で
         黒が復活することがあっても、
              それは左官が追い求めた黒ではない

我々左官が受け継ぎ、伝えてゆく黒ではない。

寡黙で、口下手であるが故に
          ひっそりとこの世を去った、ある左官の死。

・・・

そして世の中は、いつも通り流れている。