『 秀平さん!アーティストではなく、いつまでも職人でいて下さいね。』
これまで様々な人に出会うと、男女を問わず、なぜかこの言葉を言う。

あまり何度も、この言葉を聞いてきたから
なんなのだろう? その違いは?

なにを言わんとしているのだろう・・・


いつしか刷り込まれるように
アーティストと職人の違いを考えるようになっていた。

この人ならと話しても、
そうかあ、と腑に落ちる答えを聞けないないまま・・・・

結局、自分のなかでは
注いでいる情熱やエネルギーに変わりはなく、
その問いかけが、《とても安易でくだらない》と思えてくる。

どっちだろうが、
自分では、身につけた技能と感覚で、
コテを使って、弟子に入った時から変わらず、物を作る以上、

少しでも、自分に納得のゆく仕事を求めるのは自然で
出会ったクライアントを満足させる、要求に応えて行きたい。
そして、自分を納得させることでもある。

例えば、土やコテを使っていなくても、
左官からの経験と、培った感覚で物を作っているならそれも左官。

何かを真似たのでもなく、自分の美意識から生まれたものなら
そんなのは、どっちでもよく、同じなのである。
見て取る個人個人が決めることなのだ。

それでチェルシーの会場には、こんな言葉を添えた。


デザイン
彫塑
絵画
工芸
・・・・・・
具象
抽象

私にはその違いも
私がどれに属するかもわからない。
ただ、作品が自然に近くありたいと思っている。

自分の手で形づくったものが
風に乾いたり、雨に洗われて
自然のなかで移りゆく。

すなわち、素材が自然に動き、
時とともに生まれ変わること。

それが私の目指すアート。
HANDS INSPIRED BY NATURE

四角く区切られた枠の中であろうと、
与えられた小さな場所であろうと
描かれる線や、構図や肌や、
起伏や色合いの組み合わせは、無限にあるはずで、

ARTの本質って、
国が違い、言葉が通じなくても
自然な感情が揺れ動く事だと思うのだが、

だから
学習が必要な訳はなく、説明だっていらない
自然に心が反応し、引きつけられて欲しくなる
作られたものに、震える、心が揺れる。

その感情がARTだと思うのだが・・・・・

3年前に出会った日本の漫画家、
         井上雄彦さんの墨の線を見たときだった。

俺の感情は震え、揺れた。

もちろん立派な絵なのだが、それ以前に線の迷いのなさというか

一本一本の線が細く太く、美しく、繊細で鋭く、
          オドロオドロしく生きている。

その線には、動き出すような命があるのだ
俺にあの線のような、生きたものがあるだろうか?

思わず絵は書けなくても、せめて生きた線を引いて見たいと
筆ペンを買いに行った覚えがある・・・・・

まさに・・・こうした感情を誘うのがARTだと思う

ニューヨークはアートの街だと聞いてきて
今回のチェルシーの会場(建物)にも、
20ぐらいのギャラリーが入っている。

SOHOや、このビル内を見て回ると
そのほとんどが、モダンアート系なのだが
ウムッと目がひきつけられ、
思わず足が止まるものはほとんどなく

ただ工業的に作った鉄の棒が百本以上、無機質に置いてあったり
道で拾ったつぶれた缶を貼り付けたような、

どうしようもないもの
理解しようのないものが

千万という単位の値段がつけられているのだ。
受け入れようとしても息が詰まって、むしろ疲れさえ感じて

絵画などの表現は
クラッシックだと位置づけられてしまうのだという。

ニューヨークのARTは、今や産業となっていて
社会の大きなビジネスとして
物ではなく価値になっているのが現実らしい。

その典型がMOMAにあった、
ただの便器。ただの印刷の羅列。(ミリオン$)

ただの便器を、どういう視点で価値づけるか?

価値づけることに成功したなら、
そのアーティストは自分で直接作ることはなくなり
下請けに出して作らせ、ギャラリーがビジネスとして売り出す。

買い手も、将来の価値(金)として買い付ける。
作り手も、売り手も、買い手も、感情とは離れきっているのだ。

便器は、作ったのではなく
何処かで買ってきた便器を置いただけ。

その革新性とか、価値を
学習した者が難しい言葉を並べて解説している。

で、それを、
どうしたらわかるのだろうと、

無理やり知識として、
飲み込もうとしていること自体、
不自然そのもの。

そういえばと、思い出すのは・・・・

あのフランスでのマルクリュカ教授が、自分に投げかけた言葉。
同時に、小林さんも同じことを言っている。

今は文明の過渡期にあって、
それも、ちょっとやそっとでは、戻れないほど
考え方や価値観が変わっている。

エコロジストの現状も、お金をかけた政策も・・・

みんな気がついているんだけれど、
結局、行き詰まってしまっている。

どうすればいいか、解らないでいるんだ。

そういう意味で
現代のアートも、形や、哲学で、がんじがらめになってしまっている。

だから、そこでは秀平の表現を、始めない方がいいと思う。

新しい概念で土の表現をする。
アートでもなく、職人であることも乗り越えて・・・・
それを目指すことを、私自身も望んでいる。

確かにARTは、行き詰まっていると肌で感じたNY。
そんなことを考えながら、俺のチェルシーは昨日、終わった。

・・・・話は戻って。・・・・

今回のギャラリーで
俺は、雰囲気のありそうなニューヨーカーだと察知すると
何人もの人に、さりげなく、こう聞き続けた。

あなたの目に、これらはARTと写りますか?
             それともこれらは、クラフトと写りますか?

確かにクラフトからなりたっているにしても、それを超えています。
十分、コンテンポラリーARTといっていいでしょう。

述べ400人くらいの来場者に
トラデイショナルなクラフトと表現する人は、ほとんどいなかった。

それでNYにきて、ARTってなんだろう??? ・・・

数日前、
ハーレムのゴスペル、黒人のミサに行った。

一番後ろから3列目あたりの通路側に座っていると

黒い服装に赤い帽子の姿を統一していながら
思い思いの帽子と衣装で、同じステップを踏みながら、
重量級の黒人女性たちが、ステージに向かって入場してゆく。

黒人女性は皆、スーパーの店員だったり、
この地域に住む一般の人々らしいのだが、

ステージ上に立った女性たちは、
不揃いでいながら、いったん同じリズムで揺れだすと
教会がきしむほどの声量で、
向き合う人たちとの、すさまじい響きあいがはじまった。

全身に鳥肌が走ったあと・・・・
なぜかボア?んとずっと、目が熱くなって止まらなかった。
人間が息を合わせて魂を揺らし合うド迫力。

スイッチが入ったような老婆がまたひとり、
またひとりと、立ち上がってステップを踏みながら
   トランス状態に陥って周りの人に手を添えられている。

自由な考え方があるのなら
これがアメリカで見た、人間の一番のARTに思えた。

まあ、こうして
ああも考えた、こうも考えた40日。

あんな便器ひとつに、振り回されたニューヨーク
あんなにも、すさまじい叫びと魂が揺れ動くニューヨーク。