近頃、二度、京都へ行く機会があって
         用事の合間をぶらぶらと、京都見物をした。

あてなく行ったところは

・・・三十三間堂、
   ・・・少し歩いて智積院というところ


観光名所でもない、
   なんの変哲もない食事処や土産物屋
       ・・・普通の民家の続く路地を歩く。

そこであらためて気づいた
         京都の凄さ、について書きたいと思う。

【 その凄さとは、街並みの外壁や内壁がさびていること 】

ここで

ざっくりこの街並みの土壁の説明をすると
            ・・・たぶんこうである。

土は、もちろん京都の土。

土屋町という町名があるくらいで
        地場で掘り出した土を、
             石うすでついて粉にする。

左官の土壁には、

わらすさ (藁苆)=(藁を切ったもの)を入れるのだが、

わら苆といっても

大きさや柔らかさなど多様で
    荒壁用苆、中塗り用苆、ほぐし苆(大)(小)、
             長ひだし苆、ひだし苆、みじん苆と、

                    用途によって使い分けられる。

特にひだし苆、みじん苆の良質なものを求めるとなると、
         一日かかって作れる量はわずかで、値段も高い。

    たかが、わら、などと笑えない、とても手間のかかる素材である。

それで、

石うすで、こなされた京都の土【1】の体積に対して、
みじん苆や、ひだし苆を【0.5】以上もの量を入れて練り合わせる。

練り合わせた【土とワラ】に
      【砂】で粘りを調整して寝かせるとか・・・・

左官は、

親方によって流儀がそれぞれ微妙に違い、
          材料作りから、塗り厚や塗り方まで

こだわりラーメンのスープ以上に、
       利休の昔から、あれこれ複雑に進化している。

この、≪ 土 ≫ と ≪ わら苆 ≫と ≪ 砂 ≫を
     【 水 】のみで練り合わせて塗る技能を、
                 
                ≪ 水ごね仕上げ ≫と呼ぶ。

京都は、

この水ごね仕上げが、街のいたるところに、
     内外壁に、たっぷりと厚みをもって塗られているのである。

やがて、水のみで塗られた土壁は、
   湿度によって、土のもつ鉄分が酸化してゆき、
          壁の表面がゆっくりこげ茶色に変化してゆく・・・

                    これが土壁の≪さび≫である

さびるほどに・・・壁のワラがグッと浮きでて見えてくる。
          
さびは、必ず出るとは限らず、出ないこともある。

塗って乾燥した直後から

一気に出ることもあれば、
  数十年とかけてゆっくりとさびたり、
           壁全面がさびたり、

かと思うと、

ムラになってさびたり、濃く現れたり、淡く現れたり・・・・

いったん、

京土そのものの色合いで
職人が精一杯塗りあげた後
             
さびは、自然の現象として現れてくるのだ。

これだから無限になる
これだから、測りきれない

良くも悪くも、人の手を超えてしまうのだ。

目の利く職人や施主は、
    そのさびの出方を値踏みをしたり、見立てたり・・・

たぶん、これが我々に流れている、どこまでも深い美意識そのもの

「 秀平はん、ワシらは壁を塗った後、土とわらが水引きして、
               
  ふわ?っとした肌合いの壁になるよう、こだわってますけど、

さびにもなあ?

美し?い、さびと、
きたな?い、さびがありまんねやー。

こればっかりは、ナンボ狙ってもなかなかできまへんのやー。

        ホンマ、ええ壁っていうのは難しいもんでんなぁー」

京都生粋、ワシが天下一やぁ・・・
   白髪頭の角刈り、ジーンズずぼんに、藍色足袋はいた雪駄姿。

尊敬する一徹親方が、
       鬼のような顔の目尻を下げて笑いながら話す

塗り壁に国宝は無いけれど、
    これこそが最高峰です、と説明してくれる、
          京都大徳寺の蓑庵は、土壁の国宝だと断言する。

確かに茶室における、壁は圧倒的な存在感で素朴。

俺なんぞウナズクシカない。 ・・・・確かにマチガイナイ。

さびとは、

水ごねの土壁仕上であることの証、本物の証なのである。

京都は、

職人も住み手も、さびなんて当たり前でしょっと暮らしている。

雨の夕暮れ・・・

熱燗1本吞んでいると、
   きゃしゃな、しぼり丸太の床柱のある土壁が、
         地味?な京土の色あいで、淡いさびを浮きだしていた。

さび壁の中に掛け軸がつけた白い傷・・・・
     何とも言えぬ長い時間の漂った雰囲気に、
           いつのまにか視界をぼんやりさせていると・・・・

いつか小林編集長に教えてもらった言葉が、
            また一度身体で分かった気がする

・・・≪ 一壁、二障子、三柱 ≫・・・
    これが眼の効いたダンナ衆の家の褒め言葉だよ。

褒め言葉は、

壁が一番だと言っているのではなく、

この三つ、どれひとつ欠けてもいけないと
           教えているに違いないと分かってくる。

街の中を散策していると、新築されて間もないだろう
                土産物屋の壁がさびている。

これまたスゴイところ。

お寺、旧家、すべての柱や、壁が、ふすまが枯れて傷までもが美しい

こうして数千軒とあって
      景観をなしている京都の凄さ

いやはや、いやはや、
    都のチカラ、伝統意識の強さも格段にちがう。

数年前・・・・

地元飛騨で、水ごね仕上げの荒目肌で壁を仕上げたことがある

去年だった、その施主から壁が汚くなっているから
                直してほしいという連絡が入った。

見に行くと、
   壁が見事にさびているのである・・・・

このさびに値打ちがあるのだと説明しても、うけつけないだろう雰囲気に
結果的には・・・・さびをすべて落として仕事を終えた。

いつか自分も、深く味のあるさび壁を狙い
施主を前に、変わってきたね?と、畳に膝を折って
眺めることが左官人生にあるだろうか?

しかし飛騨では
      水ごねを誰も知らない、もちろん、さびた壁などない
         
保存工事が行われても、さびとは到底無縁な製品が塗られている

古い街並みを歩くと、外壁の黄漆喰がウム?っと思うほどの
     明るいレモン色の華やかな色調に・・・・さびしくなる

山深くにありながら、高い文化と町並みの美しさを誇った飛騨
しかし観光地として、開放的になった飛騨にその感覚は、もうない。

この、京都のすごさを話していると
  あそこは、排他的なところだからなあ、という・・・

けれどそれが京都を作っている、ぶれない力。

あの、頑固一徹な岩のような親方と話していると

・・・これは、水もちも色合いも、ええ土や!

・・・袋詰めになっているみじん苆を手にとって
この中にある粉はぬかんとダメなんですよ
ええとこ、どんだけもないんですよ

そして、

・・・ わら苆の中にある節の部分が、あきまへんのや?

・・・もうちょっと藁を柔らかくしないと、壁も柔らこうならん

たとえば、こんな話が延々つづく・・・・・

いやはや、いやはや・・・・・

驚くのは、この人の頭の中に、
   手間暇に対する抵抗がまるで感じられないこと、
              銭金の感覚が全く見えてこないのだ

こうした職人が息づいて、生き生きしていること
それは、街がこだわりを必要としていること
            よそ者など、つけ入るすきはない。

  
だからこそ・・・京都は、いつまでも京都、
京都は凄い・・・・。