日本経済新聞/2012年8月25日号「土壁からみた日本」

昭和56年修業の為、熊本市へ、
いわゆる丁稚≪でっち≫と呼ばれる寮暮らしが始まった。

当時18歳の自分が入った会社は、
学校や病院、地域の庁舎など大型工事現場の
セメントモルタルを主として扱う150人超の左官大集団。


建築の方式は

ほとんどが鉄筋コンクリート造で、
現場監督は、手書きで図面を書き、
型枠大工と一体となって建築全体の墨を出し、

いかに精度の高いコンクリート躯体をつくるかが職人の醍醐味、
体験と失敗を重ねた熟練の成せる技であった。

左官は、そのコンクリートの躯体に( セメント + 砂 + 水 )
で作ったモルタルを練り合わせて塗る、

名称《モルタル金鏝仕上げ》セメントで平滑な壁を手作業で作る、
その上を塗装屋がローラーで、ペンキ仕上となる場合が多かった。

左官は現場の仕上がりを決めるキーマン的存在で、
現場敷地内には、必ず8畳くらいの左官小屋なるものを建てて、
一袋、40kgのセメントを200本ほど積み上げ、

大きなモルタルミキサーを設置し、サイロに溜めこんだ砂を
ベルトコンベアーからミキサーに落とし込む。

左官小屋には
必ずコネ屋(モルタル練りを専門とする職人)がいて
一度に一輪車8台のモルタルを汗を流して練り続けて

小僧だった俺は、
このコネ屋の親父と、いつもケンカをしながら必死に
職人衆が入っている空間へ、
一輪車にいれたモルタルをどれだけ走って運んだかわからない

しかし、今現在、このモルタル塗り(湿式工法)は、
ほぼ100%石膏ボードをビスで止める(乾式工法)に変わってしまい、
今や建築は、職人が現場で作り上げるものから、
             作業員が組み立てるものになってしまった。

そこで4年間見てきた荒くれ職人たちは、皆個性が強く、

今思い出せば、職人ひとりひとりがただならぬ癖を持ち、

それを読み取って動くことが、
でっちであった自分が、技能を習得する近道であったと思う。

そしてこれまで、
頑固職人ほど、最終的には俺を可愛がり
今の自分を育ててくれた事に感謝している。

でっちの1?2年目、
よく一緒の現場になった27歳の2人の職人がいた。

その2人は、
ぜんぜん違う、まったくかみ合わないタイプで、

ひとつの現場の左官を引っ張る中心的職人
(機関車)と呼ばれていたから、
2人が同じ現場になることはめったにない。

まずひとりは、
坊主頭にヘルメットを深くかぶった、小柄な身体。
切れ長の細い目、いつも濃いブルージーンズのスリムを履いて
大型バイクに乗ってやって来る。

モルタルをのせるコテ板は大きな正方形で、
壁を塗るコテが身体に対して大きくて、
かえって能率が悪いと思えるのだが、

動作は俊敏、
鋼のような強い全身から湯気をたてて激しく、
ゴツゴツと音を立てて壁を塗るから、

胸元も膝も、時には飛び散ったモルタルを顔中につけ、
全身モルタルにまみれになって、しゃにむに進むタイプ。

驚くべきスピードと精度で、
誰よりも多い、m2数を誰よりも早く、
1日のノルマ以上を塗って出るのだ。

例えば夕刻、
他の職人が手間どって残業になっていても、
時に失敗している仲間がいても、ぷいっと横を向いて知らぬふり。

ましてや新入りの俺など、
見ていても見ないふり・・・
  その振る舞いたるやあまりにも露骨で、

ある時、舟の中に(モルタルを入れる浅い鉄の箱)

でっちである俺は、もしも塗るスピードに
モルタルが間に合わなかったら大変(ぶん殴られる)と、
必死に一輪車でモルタルを運んでいた。

そんな合間に気をきかせ、
舟の手ぐわでモルタルを取って、
アイヨ!っと相手にモルタルを さしかけようとすると

【 ピシ!! 】反射神経すばやく俺の手は、払い叩かれる。

クソ?っと、もう一度すばやく、
手ぐわでモルタルをすくい取ろうとすると、向こうはさらに早くピシ!。

お前は手伝っているつもりでも、
こっちは逆に仕事が遅くなんだよ!
この馬鹿野郎!

ヘルメットの陰から、
俺様に近づくなと、言わんばかりの眼が無言に光る。
どうやら、じゃまだと言っているのだ。

とにかくしゃべらない。
殺気だったまま、俺がいるこっちに向かって歩いてくるから、
来て何か言うのかと思いきや、どけとも言わず
ド?ンと、ただ左肩を押して立ち去ってゆく・・・・・

かたや一方は、
チェイサーという真っ白な車で入場。

髪短めのオールバックに、何処かの帰り?と、思うような白いポロシャツに、
綿の白ズボン、土足厳禁の車から雪駄を履いてやって来る。

長靴なんて履かない、
雨上がりの水たまりを、雪駄でピョンピョンと除けて、こっちへ来る。

しかし、これが仕事のスタイル。
鉄壁の切れと綺麗好き、綿の白ズボンに青い足袋を履き、
ペーパーで、すれっからしになった真っ白なヘルメットをチョンと頭に載せて、

コテ板は幅狭の横長の形状で、小さくすり減った、
錆びひとつないピカピカのコテで塗る。

やや、腰を引き気味に無駄な動きなくスルスルと塗る。

そして、なにより速い!

ある時この職人に、クワでモルタルをすくい取り、アイヨっとさしかけてみた。

すると、それを受け取ろうとコテ板を差し出した熟練の、
真っ白なズボンの膝に小豆くらいのモルタルが、
一粒、ポトリっと飛び散った。

その瞬間・・・
タバコのフィルターを噛みちぎらんばかりに歯を剥き出し、

このガキ?、汚したな?っと
目の玉カキムイテ、俺が下手に見えるだろと、言わんばかりに

光ったコテが振り上がった途端
         走って逃げるしかなかった。

これまたほとんど、しゃべらないが、
嫌味ったらしく、たまに、にやけた顔で俺に言う。

あんな風に汚れて汚して、仕事しましたじゃあ、つまらん!
見てみろ!あいつのあの足元、周りの汚なさ、
ザマがねえー、 やりゃあいいんじゃないんだ、下手くそが!

指をさす。
秀平、お前もああ成りたいか?
あいつらいつまでやってんだ!と、しゃがんでタバコを吸いながら、
あざけ笑って見ているだけ。 見下した態度で
とっとと帰ってしまう。

・・・・・・・・・・・・

こんな、熟練が当時はゴロゴロといた
こうして、競い、レベルがどんどんと高まって行く。
もちろん大工にも、他職種にも、たくさんいた
なんともならぬ偏屈だが見事なノコギリと、あの美しいノミの刃先・・・・
仕事のきれるもの同士は、ほとんど争わない
それは、実は、相手を認め、読み合っているから。

しかし、今、日本が続けてきたあらゆる建築方式は変わり果てた

全ては、能率と安さを求めた、手作りであることの欠陥を認めない、

無機的な、
空っぽな、
ニュートラルな、国、日本になってしまった。

そこに、全国の職人衆が生きれるほどの仕事量はない。

2人は、どっちがどうではなく
今思っても、どちらも最高の腕と切れ、最高の誇りと根性を持っていた。
使いようによって、適材適所の素晴らしい個性と、流儀に溢れていて
もし、彼らのような職人が、20人30人と、あの頃のようにいたなら・・・・・・

もしも今の俺が・・・今の俺が、彼らを使い、
新しい創造力でチャレンジをしたなら、
もっともっと、斬新で、これぞ日本の職人の技だと!

世界が驚くような可能性と表現が、どんなにも開けるだろうか?
                   それが悔しくて仕方がないのだ。

このブログを書くにあたり、
あの2人に、数年ぶりに電話をしてみた。

オオ?、・・・秀平か?という、
        犬のような、唸りのある音で、懐かしむような声だった。

そっちはどうですか?っと懐かしく、尊敬を持ってたずねると、

遠い声で、あの頃ように仕事も、
骨のある若い衆も、もう、なあ?んもなかよ。

俺たちも、
その日暮らしみたいなもんで、
そこらへんの穴をなあ、モルタルで埋めたり、

小さなコテが、2・3本あったらもう十分で、道具箱なんちゃあ、もういらん!と
吐き捨てるのではなく、諦めるように笑っていた。

そしてこう続けた。

でも、お前は行ける、行けるところまでいけ! 見ててうれしいぞ・・・・・

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

熟練は、皆、人に不器用で寡黙だ。

そして、熟練は寡黙で誇り高きゆえに、
               皆、黙って静かに消えようとしている。

国や、様々な団体が、いろんな形で支援している???

そんな、暖かさや愛など、受けたことも感じたことも一度もないと。

この俺が 熟練に代わって、代弁する。

毎日新聞/2011年8月23日?9月3日号「時代を駆ける:挾土秀平 」コラム