3,11、東日本大震災から思うこと

もともと津波を受けた沿岸の人々は、海を向いて生きてきた

海を向いて生きてきたとは、
          海と生きた、海に生かされてきたのである。


冲へ出て魚を獲る人、
獲れた魚を加工する人、
貝類を養殖する人

飛騨人が、縄文のその昔から、
           山の恵みによって生きてきたように

沿岸の人々もまた、
    その昔から海が仕事場で、
           海の恩恵が暮らしそのものだったのだろうと思う。

海は大自然そのもの。

自然である魚は、計算どおりに、人間の思惑の様には来てくれない。

だから、人々はいつも海を見つづけていた
        いつも海と一緒にいることで、今日までがあった。

しかし今回、海からの津波を受けて
        大勢の人が命を失い、行方不明になって

識者と呼ばれる人々や政治家のあいだでは、
 このような災害の対策として
    湾岸に巨大な防潮堤を築いて津波を防ぎ、
     人々の 暮らしを守ろうという議論がさまざま交わされている。

測りきれない自然に抵抗して、人と海を隔てるものをつくる考え方。

それとは反対に
津波の直後、雪の中を読経しながら歩く僧の姿は

海と人との繋がりは、ますます深まった、
              と言っているようなような
                      強烈な写真であった。

たとえば
漁師の父が海に消えれば、その息子にとって海は父になり、
奪われた命はどんな形であれ、海になったのだ

震災以降一歩ずつ、
気持ちの区切りをつけて、
踏み出してゆく中で
失った命を知る人々は、

これまで以上に海に向かい合い、
    その思いを深めて生きていくのだろうと思う

二万人近い犠牲者と、そのうち
三千人という行方不明者がいる海は、鎮魂してもしきれない。

鎮魂とは、いつも海に向かって語りかけていること
これからも、海と人を切り離すことはできない

職人社秀平組のものづくりは、自然と交信しあうこと。

我々は結社して以来、
自然と折り合ってゆくのが左官の本質だと、考えている。

たとえば、鎮魂の表現として、海に向かって巨大な壁を作り上げる。

自然を受け入れる壁とは、
生まれることも、朽ちることも含んでいる。

恵と災いと、鎮魂と、それを被災地の人達と合わせもって作り上げ

巨大な壁面を持って
・・・海と人が、ふたたび強く向き合う・・・。

そして、何事もなかったように、その壁を解き
           そこに、その昔からある海が広がっている。
                   
そんなことができたならと思う。

3・11の震災直後
自分は、おそらくNHKが流した、はじめてに近いわずかな映像に

津波が襲っている一瞬に目を疑い、
           異常に鳥肌を立てていたことをよく覚えている

まだ、報道による全容を知る前に、
  職人衆の近親者の安否の確認と、ゾクゾクとした、
    震えるような直感におびえて、テレビ画面に釘付けになっていた。

翌日には、職人衆を集めて、
    数名の職人の現場を休ませ、
         会社の道具や機械の点検と、清掃かたずけ、

倉庫内の資材と材料をチェックさせた上、十二分の在庫確保を指示し
しばらくして震災の激甚が明らかになってから、こう訓示した

『 秀平組はボランティアなどの活動は、とりあえずなにもしない、
    今は自分達がいつも以上に安全に気をつけて、
         混乱から離れて、代わりない日常生活をしていること。

なぜなら、もし俺たちに、なにか出番があるとしたら、

いまの、混乱のさなかではなく、
        もっと落ち着いたその先にあると直感するから。

たぶんいつか、何らかの形で、
関わることが必ずあると、俺は思うから。』

それでいま、自分の考えに賛同してくれる人達や
 被災地と、その主要機関につなぎあわせてくれる人物との出会いもあって             はじめて、東北の被災した地へ向おうと思う。

そこで、なにをするかは、まだこれからだが

ちかく、職人者秀平組全員と、その仲間で
               宮城県雄勝町に向けて出発する。