東京・千石の名左官、榎本さんが言う

「伝統と伝承は違うんだよ。
      伝統を守るには、真に革新的でなくちゃならないんだよ。
                 そうでないと伝統は守れないんだよ」


これは、自分も同意見で理解しているつもりだが
     特に最近の、我々から見る日本社会の変わりように、
               この言葉が切実なものとして感じられる。

地元、飛騨高山では、吉島忠男さんがこう呟いていた。

「ギリシャとか、ああいう石の建築はなあ、
         たとえ廃墟になっても美しいんだよ
   
しかし、日本のような木造建築は廃墟になったらゴミしか残らない」

西洋の石の建築が、数千年という時を経ても残るものであるのに対して

確かに日本は、
伊勢神宮の20年ごとに式年遷宮するように、
              土や木や水と関わり合い、
          
         作り続けていなければならない性質の国だと思う。

左官は、そんな自然と人間の暮らしのあいだを
               繋いでいた職種のひとつだが

これまでの仕事のやり方や、
   それ関わる人間関係を守るだけでは、
         もう仕事を続けて行くことは不可能なのが現状である。

特に自分のように、

飛騨高山という特定の地域で職人をかかえて仕事をしようとすれば、
ゼネコンや工務店の下請として働くだけでは、

競争受注の激しさと
不況の影響をもろにかぶってしまい、
地元の街づくりの形態も変わり果てて
        
       今や、親方として仲間を守っていくことは、到底できない。

●左官をはみだしていく自分

本来は、伝統的な仕事をキッチリとやって行きたいと思っている。

けれど残念なことに、時代がそれを許してくれない状況のなかで、

自分が左官で表現したいこと、今後、進めて行きたいこと
         関わっていきたいジャンルがどんどん広がっていき、

  「もう左官じゃない」と言われたり、かといって
       デザイナーだと、決めつけられるのも違和感を覚えてしまう

左官から、
はみだしてゆく自分の仕事を、
       どう定義すればいいかが、わからないでいた。

どっちつかずのコウモリみたいに思われるのもいやだが、

最近では「左官」と名乗ったとたん、
   「左官ってなに?」と、真顔で聞かれたり

左官を知る人からは、壁を塗るという行為のみで認識され、

たとえば左官を知らない人が知ろうとしたとしても、
               それは「伝統」だと捉えられて、

狭い範囲でしか仕事の関わりが持てないことに
              フラストレーションを感じてしまう。

● これまでの仕事をふりかえれば

まつぼっくりワークショップや、
  雪や氷を塗るといった氷雪のモニュメント
     世界的なホテルのロビーの金箔の壁も、

洞爺湖サミットで作った土のテーブルも、
          都心のバーの月と桜の壁も、
                   自分の中では左官である。

相手の望んでいることを知り、デザインを考え
自然の材料を使い、
気候を読み、

仕上がりを予想して経年変化まで考慮する、
それらはみな、左官の感性をいかした仕事だからである。

文章を書き出したのも、個展を開くのも、
    その時々で、どんな感覚をもって仕事をしていたのかを
          残しておきたかったからだったと、いまにして思う。

現在も進行中のプロジェクト
人生をかけた「歓待の西洋室」を移築・保存したいという
                      夢を追っているなかで

西洋室と同じ以上に、石を築くこと、樹や草花のことを知ることなど

自分のやりたい仕事の広がりを、
あたらめて気づかせてくれるものとなっている。

その物が美しい、新しいだけではいけないこと
自然や景観との微妙な関係や、ものを作ることの意味や、
             出来あがるまでのプロセスを大切にして

自然をどう理解するか、
人が生きること、人を《 もてなす 》とは、どういうことか

「 人間と自然 」この二つにある長い一線上で、
   さまざまな位置から、自由に視点を置いてきたあり方
         これらをすべて「左官」と言ってはいけないだろうか。

この10年間、我々は生きるために、
        必要に迫られて、それらを実践していたように思う。

新しいプロジェクトの依頼にも、
    こうしたらどうかという発想はどんどん湧くし、
            期待された以上の仕事で返してきたように思う。

●パリ国立鉱物大学のリュカ教授に言われた言葉、 Essais 《 エセー 》

つい最近、教授に招かれて、フランスの旅をした。

11日間という旅の途中で、今の自分の考え方、
      自分の仕事をどう定義すればいいかわからない、と
                    リュカ教授に投げかけてみた。

すると教授は、
今は文明の過渡期にあって、
それも、ちょっとやそっとでは、戻れないほどのもの

だから文明的な過渡期のなかで、
       考え方や価値観が変わるのは当然だし、

いろんな国の、
  いろんな自然観をもった人達が出会うことが必要で
                 そして、助け合う必要がある。

工業化した農家や、
 エコロジストの現状も、
     お金をかけた政策も・・・

みんな気がついているんだけれど、
     結局、行き詰まってしまっている。
         どうすればいいか、解らないでいるんだ 

・・・・もし、変えられるとしたら・・・

               それはきっと小さな集団。
 
自然観をもっている人、
     それを話して伝えられる人・・・・しかいない。

環境学は西洋が作ったが、

西洋の思想は、直線的でサイクルではなく、自然とは敵対してしまう。

そういう意味で

現代のアートも、形や、哲学で、
    がんじがらめになってしまっている

だから、そこでは秀平の表現を、始めない方がいいと思う。

いまの考え方を整理して、

新しい概念で土の表現をする。
   アートでもなく、職人であることも乗り越えて・・・・
             それを目指すことを、私自身も望んでいる。

そして翌日、
「あれから考えてみたんだけど」とリュカ教授は口を開いた。

16世紀の作家で、
モンテーニュの『エセー(「随想録」)』という本がある。

エセーは、

日本では「エッセイ (随筆)」の起源にになった作品として
                       知られているけど

この言葉は、もっと大きく広い意味を持っていて

フランスでは、

(こころみる)、(トライアル)といった意味をもっている。

これからのあなたは、
    自分をEssais《 エセー 》と名乗ってはどうだろうか?

モンテーニュなんて、
     はじめて知ったし、もちろん読むはずもないが。

自分は、教授のEssais《 エセー 》に、なにか腑に落ちるものがあった。

自然を相手にしたインタージャンルの仕事で、
          こころみを、つづけていきたいという気持ち

『 エセー (こころみる)』
       という言葉が、この気持ちを表現しているのかもしれない。

これから

Essais 《 エセー 》という、
    自分なりの、自然と人間の新しい概念を考え実践するにあたり

この12月の初旬、

書き温めてきた想像のものがたり、
           三部作を出版する。

          エセーとしての第一歩として

 Essais, premiers pas   エセー プルミエ パ

                       「第一になる数歩」。