* 挾土さんのブログ、読みました。
  なんとも言いようのない、唇をかむような気持ちで・・・

  日本の経済は、その地表という地表をハリボテ模造品で覆うことで
  循環しているらしい・・・帰国時の実感ですが、それを裏書きして
  くれるような悲痛な現場のこの声をどこに持っていけばいいのか、
  行き場がないことがつらい。


* 本当に挾土さんに共感します。
  言ってること、みんな正しいです。
  ずばり言ってもらって清々しいくらいです。
  ありがとうございます。

  でもここまで書いちゃって大丈夫?って心配になります。
  覚悟のうえ、ということなんですよね・・・・。
  そこまでどうしようもない、という。

  挾土さんだって好きで批判してるわけじゃないんですもんね。
  自分に仕事が回ってこなかったとしても、
  舌を巻くような見事な仕上がりになってたら、
  それはそれでうれしいくらいのもので。

  ただ、問題の根は深いですね。
  もう無理かもしれない、手遅れかもしれないな、とも思います。
  挾土さんもそう思ってるのよね・・・。

  ドイツ在住の方がきのうくれたメールを添付します。
  フィンランドの描写が素晴らしくて、嫉妬するほど。
  ほんとうになぜ、日本はこういう国になれなかったのか。
  残念でしかたありません。

* ご無沙汰です。
  旧川上家の建物
  秀平さんの無念が伝わってきました。
  
  ちなみに、写真で見る鍛冶橋はかなりひどそうですね。
  これが税金を使った仕事なんですかね。
  役所に投書したくなりますね。

  ところで、前も言ったかも知れませんが、
  スエーデンでは公共建築の
  費用の1%を芸術に使わなければならない法律があり、
  公共の病院や図書館、官庁に絵画や彫刻が多く、
  住民がいつでも、公私問わずに建築物に目を光らせているそうです。
  うらやましいですね。

  クライストチャーチも街の景観を最も重視した、
  長期計画がゆっくりスタートしています。

* いっきによみましたよ

  今日は初秋のように涼しく
  食後のちょっとした空き時間だったですから
  雨もしとしと降ってますし
  食休みに読む内容じゃないッスね
  むかついてきます!

  だいたい ここから見える東京の風景
  本当につまらない 
  ただのコンクリートの街ですよ どうでもいいって感じです
  
  だいたい
  二流か三流の連中が造ったものばかりですよ 見えてくるのは
  一流のものなんかほとんど目に入ってきませんよ
  
  スカイツリーも上のほうは不恰好だし
  まあ 一流な人が 少ないってコトですよ
  孤独なんですよ!

  という感じに 一緒にふてくされてみました
  さあ うちあわせにいってこ!

* 薄れる故郷、拝読しました。

  実は1部の方を数日前に拝見していました。
 
  江戸屋萬蔵の、鶴や松の扉の写真を見て、
  ほぉ?と溜め息をつきながらブログを読み進んで、
  まさかの結末に、あまりにあまりの内容に、
  もう言葉を喪ってしまいました。

  どうひいき目なしに考えたって、
  ハサドさんにひと声かかるべきでしょう。
  悪意がどこかに潜んでいるとしか思えない。
  励ます言葉を探すことができませんでした。

  そして、今日、2部を拝読。

  ますます言葉なく。
  本当にひどい。橋の写真。
  素人の私でも明らかに分かるひどさ。

  土足で踏み込まれたような違和感と嫌悪感でいっぱいになっています。

  天領の誉れは、もうすっかり忘却の彼方なのでしょうか。
  ハサドさんおっしゃるように、目利きの街である飛騨に、
  その誉れがあるとしたら、
  それはもはや清貧の中にしか存在しえぬのかもしれません。

  高山が、上海万博会場のようになってしまう前に、
  美学が少しでも残っている間に、
  せめて清貧でありたいと思っています。

  ハサドさんのブログ、知人に読んでもらってもいいですか。

* 「万蔵は二度死んだといっていい」。
  その一文に込められている痛切さに、思わず目をつむりました。
  万蔵の“二度目の死”をほんとうの意味で理解できるのは
  秀平さんだけだろう、と思う。

  秀平さんは、
  時空を超えて万蔵と会話できるほどの腕と感性をもっているから。
  そして同時代人の少し先をいく人だから。 
 
  でも「薄れる故郷その2」を読んで、万蔵との共通点は、
  左官職人としての立ち位置だけではないと知りました。
  故郷をなくした万蔵と、いま故郷をなくしつつあるその姿が、
  だぶります。
  「この故郷を去ろうかとなげき/それでも信じている自分への怒り
  (中略)さがしものはこの純情の中にある(『春の長雨』より)」。
  そうやって、胸をえぐられながら、さがしものを探していくほかに、
  生きる道はないのかなぁ…。
 
  それにしても、高山の一等地の橋を、
  あんな風にぐちゃぐちゃにする神経ってなんだろう?
  きっと、わたしたちが知っている
  「職人さん」とは違う人種なんだろう。

* 薄れる故郷1と2を拝読しました。
  高山に行くたびに、交通が便利でないことが幸いして
  残っている旧く洗練された町並み、
  茶道や華道、香道なども盛んという文化的な成熟度、
  飛騨の匠と言われる技能の高い人々の存在を知り、
  すごいところだなあと思ってきました。
  
  そんな高山にあの橋って本当ですか。
  高山はどうなってしまうんでしょうか。

  そして、挟土さんの失望は、
  高山への愛の深さを物語っているように感じました。
  愛すれど片恋。
  せつないですね。

  「どうしてもっと自分を大事にしないのか」
  と肩をゆさぶっても、虚ろな瞳にはその声は届かず。

  それは、いま日本中で起こっている不幸と同じ。
  でも、高山はそうなる最後の場所であって欲しかったです。
  勝手な言い分なのかもしれませんが。

* はらはらと死んだ風
  はらはらと死んだ川
  はらはらと死んだ花
  はらはらと死んだ葉
  はらはらと死んだ石
  はらはらと死んだ心は乙女のよう
  死んだふりするのは森の精
  乾いた樹の傷から流れる樹液は
  乙女の恥じらいの血
  億年の死をふくんだ土は少年の血

  はらはらとした乙女の血と
  はらはらとした少年の血は
  はらはらと新しい命となる

  はらはらとした詩人は
  はらはらとした死人となって漲る(みなぎる)
  永遠の生を持つ
  滝のように血を流しても
  そこには死のない生がある

              死人 より