職人は、ただ自然あると知れ。
かつて、職人は自然の中で仕事をした。

自然の中で仕事をするということは、
       自然の素材を扱うというばかりでなく、

             自然の場で仕事をしたということだ。


自然の場とは、

私は四十年近く、左官の雑誌の編集にたずさわってきたので、

左官の仕事からいうのだが、
左官の仕事は、現場の状況によって左右される。

その日の天候や、日の長さといったことに
              微妙な影響を受ける。

左官は、現場の状況に合わせて、
     塗り材の調合の塩梅によって水引きを調節すること、

( 水引きとは、
  乾いた下塗りの土が上塗りをした時、水分を吸い込んでゆくこと
  あるいは、
  塗った上塗りの土が、天候によって蒸発するスピードのこと。 )

そうした変化に対応する技術を、
      場数を踏むことで学んでいくのだが、

           最後は自然のなりゆきにまかすと言ってよい。

( 左官の壁は、
  四季それぞれの天候や、壁の大きさでいつも施工の考え方が
  変わってくる。 
  同じ現場の同じ調合でも、昨日と今日では施工法は変化し、
          そのタイミングも違う時間帯に訪れる。 )

下地に塗りあげた壁が、
  固まっていくのは、自然の物理的化学的な力であり、

水引きは、
  その温度や湿度や風によって、
            微妙に消長するものだから・・・。

この職人が、最後は自然にまかせるということは、

自分の技術への、信頼を失うことでもなく、
長い経験から学んできた知恵を、放棄することでもなく、

自分の技術を超えたものへの、
           自然への感受性を持つことだ。

職人の技術とは、
  自然に打ち勝つことではなく、
         自然の力を引き出すこと、

自然の働きの中に、
     自分の力をできるだけ無にするということ。

最後は、自然のおのずからそうなる力に、
               まかせるということだ。

「自然」という言葉の本来の意味で、

自然とは「ジネン」のことであり、「おのずからしかる」、
         「おのずからそのようになる」ということなのだから。

人間の行いは、すべて作為から始まる。

人は欲望や、思いがあって物事を始めるのだが、

その人間の作為から始まったものが、
       あたかも自然であったかのように終わっている。

            そんなジネンの姿で終わるといった幸運を願う。

あるいは祈るということが、

職人は最後、自然にまかせるということの真意なのだ。

私たちは自然の中にいる。

私たち人間も、自然の最小のかけらにしかすぎない。

自然の中のちっぽけな、かけらにしかすぎない人間が、
           自然の全体を、対象化することはできない。

この自然を対象化できると考え、
    自然を測定し、管理し、つくり変えてきたのが
                ヨーロッパの近代の思想である。

その結果、遺伝子組み換え、臓器移植・・・、
            歯止めもなく生命を複製するにいたった。

人間も自然から生まれた、自然の生物であるが、
             欲望を持った作為を持った生き物である。

そういう意味で、

人間は、自然であって自然でない、生き物であるといえる。

そこに人間の悲しみがある。

自然であろうとして、自然でありえない人間の悲しみを
      職人は、いつでも自然の場にあることで感じているのだ。  

職人は、
  常に、かけがえのない《いま》《ここ》
          にある自然に寄り添っているのだ。

大工が木に、
 左官が水や土に、
  庭師が生きた植物に、
    鳶が地べたによりそうように

職人は自然の物に寄り添うことで、
     自然への感受性を、悲しみと共にやしなってきたのだ。

この自分を超えたそのものへの感受性、

自然への感受性、センス・オブ・ワンダー、
             自然の森羅万象への驚きの感覚。
                 自然の多様性と、細部への感受性、

知識やマニュアルではない
     《いま》《ここ》に開かれた歓待の精神、

なんであれ、いつであれ、

来るものを拒まない、歓待の精神のほかに職人の魂を私は、知らない。

来るものが神であるか、
       鬼であるか誰が知ろう。
             あらかじめ選ぶのではない。

まず、来るものを受け入れるのだ。
    あらかじめ安全保障があるのではない。
          私が選ぶのでもなく、自然が選ぶのだ。

そこに職人の自然からの、祝福と職人の自然への祈りがある。

世界は、

自然の物と物との関係、
      物と人との関係、
          人と人との関係で成りたっているとすれば、

現代という、人と人との関係が支配している
              人間中心主義の時代において、

職人がなお、自然の物と物との関係、
            物と人との関係の中にとどまること、

人が自然の中にある物に、寄り添う関係にとどまること、

                そこに現代の職人の存在理由がある。

                   職人は、ただ自然あると知れ。

                  文、小林澄夫  ()内シュウヘイ