2月20日。たぶん、向こうにゆくとシャンゼリゼ通り
                  凱旋門があるはずだと歩いていた。

パリの街は、放射線状に道が交差して
      石畳を唸りながら走る道路の両側には
           びっちりと隙間もなく建築が統一されて並び立っている



石の街は、道の続く限り、
          見渡す限りびっちりと並び建って

歩道や交差点に、重々しく現れる銅像。
至るところに誇らしげにたなびく、三色の国旗。

凱旋門のあふれる人並みのなかにいた自分に、
   いきなりフランス人がカメラを差し出し、話しかけてきた、

もちろん何を言っているのか、さっぱりわからない、
        どうやらシャッターを押してくれと言っている。

そのフランス人は、
黒人の男子と白人の女子の、
      年のころ20代前半のふた組のカップルで、
         肩を組み合ってしきりに楽しげなポーズをとっている、

            ・・・・それがやけに、焼きついてはなれない。

小雨の夜に反射する、陥没した石畳みの水溜りや
            足元に捨て放題のたばこの吸殻が、

清潔とか規則とか、そんなものどこ吹く風だと、
       今を生きる、生々しさを感じさせて

大通りから入った、
   なにげない路地や街灯の明かりひとつが、
           どれをとっても絵画の対象となるほど美しく

街並みの全部が、
   この国の歴史を刻んだ
        文化財級の重量感に圧倒されている自分には、

様々なファッションで、様々な人種が自由自在にすれ違っている、

それだけで、これが当たり前だと、打たれているような気がしていた。

そして、2月22日。パリの日本文化会館。

自分は今回、このパリのフランス人を前にして
            講演をするために来ていたのだが
    
日本人として、
日本文化を誇らんばかりに作ったデーターに沿って話し終えたあと、

             最後に、と、こう付け加えて話し始めていた。

『私はこれまで、日本のものつくり、
      日本人の精神性は世界の中でも
               質が高く、繊細で器用で、

何気なく見過ごしてしまうような物にさえ
    奥行きや儚さを見いだし我々は、ひとつの過程や、
         仕草にまで美意識を高めてきた歴史があるけれど・・・

今回私は、
    そんな誇り高いサムライ的な気持ちで、この場に来たけれど・・・

この街ごと遺産のようなパリを歩いて、

この国が、自国の歴史と誇りを、これほど現代に貫いて守り、
尚かつそれを日々の生活としているフランス人を目の当たりにして・・』

と、話し、続けて

《 私は今、あなた方の強い意識に敬意もって
       私は日本人でありながら、それを超えて脱帽し、
          この街を誇りにおもい、心から尊敬したい・・・・》

と、言おうとした時、

突然、感情が震えだして、抑えようがなくなって
    ことばを涙が追い越してしまい、心あまって言葉足らず、

                そんな状態になってしまったのである。

それは自分でもビックリな、思わぬ衝動的な反応で

なんだか抑えていたタガが外れたように、
ひとりホテルの部屋に戻っても、何度もポロっと泣けてしまう

おそらく、日本に見る表面的な街並みに対する、
悔しさや、苛立ちに加えて、パリの街に対する羨ましさと、尊敬の念。

自分を取り巻いて包んでいる
      本物の感動が入り混じってしまったのだろうと思う

10日間の滞在のあいだ、
自分は美術館を巡るなどの観光をする事はなく
        ただ街の中の路上に、椅子を並べたカフェで、
               人の流れを見ているだけで十分だった。

目の前を過ぎる白人、黒人、ラテン系からアジア系まで、

流れてゆく人に、あの凱旋門であったカップルを思い出しては重ねていた

この先もパリは、この街を背景にして、混血を繰り返し、
  やがて人びとは溶け合って、いつの日かフランス人と言う、
         ひとつの血と、ひとつの皮膚を創り上げていくような、

現在が過程であり、数百年の街は、
       いまだに成長しているようにさえ見えてしまっていた。

この3月11日。
日本は、関東から東北地方にわたり、自然の畏れを痛感するような、
              地球規模の大地震にみまわれてしまった。

現在、2万人を越える犠牲者に及ぶだろうと言われる中、
     地震直後から徐々に明らかになってくる報道を聞いていると、

≪ ○○地方がほぼ壊滅! ○○人が絶望。 ≫

そんな信じられないような言葉が流れるたび、

まず画面のアナウンサーに苛立だったあと、
   それを受け止めることができず、身の毛がよだつとしか、言いようもない。

臆病な自分は、
   動物的な本能が異常に過敏に逆立ち
             怯えが止まらないような気持ちになっている。

地震直後の夜、
    気仙沼、陸前高田の街が、火の海なっている映像の衝撃。

これらの地方一帯は、
  大工を頭として、左官、飾り金物など、
      社寺建築、和洋風建築の日本最高峰の歴史と、

文化庁が指定しない神業が
まだまだ、溢れんばかりにあったに違いない、凄いところで

日本1000年の花を咲かせた土地柄、
        祖先の息が感じ取れる地であった。

東北地方には、日本文化の色濃く完成度の高いものが
             たくさん、眠っていたに違いない。

その後の余震の被害、
     救出作業、食料と燃料の不足、
           そして原発の危機の続くなか

昨日、見た映像と報道では、

芋煮を暖かいと言って涙を流しながら食べる人
段ボール箱とビニール袋で足湯につかる老人。
       その一瞬を、見るだけで、ぐっと瞼が熱くなってしまう

そして今 徐々に復興を合言葉として、
         立ち上がろうとする心強い熱も出始めている・・

これから、一切のガレキが処分され、
       新しい街が、時代に合わせて新しく、
               整備されてゆくのだろうと思われる。

しかし、未曾有の大津波は、人の命と歴史を奪い
       受け継がれてきた、心までも変えてしまうのかもしれない。

自分が手伝う時があるとしたなら、
            どんな形と考え方で臨まなければならないか?

そう思うと、自分なら、

街にあったあの地蔵はどこへ行ったかと探し始めるだろう。
   それぞれの街の記憶を刻んでいるもの、                         神業のような無名の彫師の欠片ひとつ、

年輪を刻んだ板切れ一枚、きっとたくさん埋もれているそれらを
                 人間と同様救出できたならと思う。

被災者の復興は、
今失われた命には、
さかのぼる1000年の命も含まれているのではないか?

でも、この大災害を、体験と肌でとらえていない者には、                    なにもいう権利はないけれど・・・・・・・

ふたつの涙の意味。
        ・・・・哀しい、
              ・・・・哀しい。