人生もそれなりに生きて来ると、
        その財産のひとつは、
               どれだけ多くの人に逢ったかではなく、

自分を刺激してくれる人に、
        どれだけ逢えたかが大切なのだろうと思う
              

時々、世間一般の縛りに全くとらわれず、

自らの体験をもとに、

     考えて行動している、人に出逢えた時、
             妙に身体の芯がジーンと熱くなることがある。


この地元飛騨にも、
      
大規模な農地改革に背を向けて、
       もう忘れ去られたアワやらヒエの栽培に取り組む
                   自分流を続ける人物がいる。

真っ昼間から自分で作った、
    妙なブレンドの酒に酔いながら、
         変に体をひねった独特のスタイルで、
                      たとえばこんな事を言う。

「 秀平さんよ!俺はなぁ・・・・
    いわゆる・・・その?、なんてゆうかなあ・・・
               ウム?まてよ・・・( 早ク云エ )
    
この斜めにねじれてうねった畑がな?
               あれ、あれだよ・・( ダカラ何 )
       

  こりゃあ、どうにもなあ、間違いなく
        千鳥足のピカソだと思ってんだけど、
                   どうだあ?・・・わかるか? 」
                
                
               ( 解ラナイケド解ッタフリヲスル )

 と、他をよせつけないマイペースでいて、
               真剣な眼差しで話しかけてくる。

山間にある家を訪ねると、玄関先には木の看板が掲げてあり、

“ 上ノ棚田ニ居マス ”  
   と、どこかでケンジに影響されたのだろう・・・下手くそな字。

こよなく棚田を愛し、
    真冬はイノシシを狩り、
           ハチでもタニシでも、

なんでも喰らおうとしている、
          根っから底っから、土着した生き様。

師走30日の、厳寒の空の下で
「 秀平さんよ、こいつぁ若い、いい女だぜ。すまんが、
               ちょっとそっちの足を持っててくれ! 」

垂れる鼻水から湯気をあげ、目の前で
     カチコチに凍ったイノシシをオノで、
                  真っ二つに割って見せる。

                    まさに狩猟採集民族の縄文人。

・・・縄文の直感的本質をもった
             ドンピン感の長嶋茂雄のような人間なのだ。

数ヶ月前だった。

そんな縄文人に異変が起きたという風のウワサを聞いていた。

逢わなければと思いつつも、忙しさに追われて、
少し怖さも感じて、そのままに過ごしていたところに届いた手紙は、
                      縄文人からであった。

裏書には
○○病病(本当は○○病院)
       白血病内科 (名古屋)・・・・ヨリ。

その手紙の
   人間味あふれる文字を見た途端、
             明日、会いに行かなければと思い立った。

面会は、手を消毒しマスクをして、
          看護婦さんからは、
             患者さんには絶対接触しないで下さい、
                      と言われて病室へ入る

「 おい!!縄文人! いったいどういう事になっとるんじゃい!! 」
                           と大きく聞くと

縄文人は、背中ごしのガラガラ声で
『 おいよ。ちょっと待ってくれ、今、ションベン中? 
あんた誰だ 』
             と、俺の顔を見て、

『 なんだ、申し訳ねえ・・・
        こりゃあ、ありがてい、ありがてい 』
                       と、言ったあと続けて、

『 あのよー、良く解らんけどなあ、なんかなあー、秀平さんよ、 』

『 白血病のなあ、神様がなあ、
             俺と友達になりたがっててよー 』
                   
                   と、ゲラゲラ笑っているのだ。

・・・俺も笑って・・・
  
「 それで、酒はたらふく飲めてるのか? 」って聞くと

『 おう、それよ、ここにいる時は全然飲みたくねえ』
     『 だけどこの間、退院した時は、出てすぐ一杯よ』
            と、すっとぼけた顔で、また笑う。

ふたりは、いろいろ話して、
   じゃあ、そろそろ失礼するから、
        ガンバッテクレ と、立ち上がると

縄文人は、 
  そうか!っと、口を一文字にして、
              スッと握手の手を差しのべてきた。

一瞬、俺も手を出しそうになったものの、少し躊躇して

「 スマンなあ・・・触るなって、かたがた言われてるから、
                 握手は出来ない 」って、答えると

『 おう!わかった!!だけどなあっ、お前にゃあ、かなわねえゾ 』

『 なんだか解らねえけどヨー、
       とんでもねえパワー貰ったから、よし!行ってくれ! 』

そのまま名古屋から東京へ・・・・。

新幹線の中、ひと眠りした視線の先に、
         赤い電光掲示板が流れていた。

≪ 世界の絶滅危惧種、18300あって、この一年で1060の減少≫

なんだか、
   急に腹が立ってきて、
         ムカつき始めて仕方なくなってきていた。

人間が決めた、
     人間の為だけの見方で、
          淡々と流れる、この悪しき平等主義の残酷さ。

デコボコは悪い奴で、
    ツルツルはいい奴。

華やかな蝶は女神で、
      夜の毛羽立つ蛾は、即刻駆除の一番手。

最近、頻繁に流れるニュースでは、

親子の熊が里に下りてきて迷い、
     まだ人を襲った訳でもないのに、
             逃げまどう熊を危険だからと

車で追いかけて行って “射殺”しましたと、
      死んだ熊を背景に、キャスターが言うと、

 コメンテーターが大変な事が起こる前で、良かったですねって・・・・。

本当の平等を言うのなら、
          この命も含めて一律、

その命のやり取りを、この場で今すぐ、
    くじで決めてやろうか?・・・・と、                      テロリストのような考えに、
            支配されている自分を感じてしまう。

尊いもの、力はないがとても澄んでいるものが、
       反論をしないで、だまって運命を受け入れながら生き、

縄文人が、
  ≪ 病気の神様が、俺と友達になりたがっている ≫と、
      
     明るく言いきったあの言葉が、あまりにも見事で焼きついて、

何よりもあの時、握手をしなかった、
          自分への情けなさと、苛立ち・・・・・
心の中が何もかも、ごっちゃになって混ざりあい、
      締めつけられるような感情になって、あふれ出たのだと思う。

いつだったか、東京お台場の公園のベンチに座って
           あの小林編集長に、言ってみた事がある。

今、俺は、山野草を調べては、
    一生懸命山林内に植え込んでいるんだけど、

その中に、“ おさば草 ”ってのがあって、

何でも御岳山の、岐阜県側と長野県側の一部にだけ自生している
          一属一種の涼やかな花をつける植物があるんだけど、

おさば草は、太古の歴史を持った原種で、
   偶然にもその群生地に出くわしたとき、
     まるで宮崎駿の世界が現実に広がっているみたいに、
                        幻想的な光景だった。

それでその時、思ったのは、一体、ここに何株あるのか?

それを人類の数で割り算して、
    この1株、何人分の命でつり合いが取れるのか?
                        計ってみたい。

というと、小林氏は、

それは、お前の中に、全ての頂点に立つ人間が支配している、
               人間中心主義の考えではなくて、

秀平はその肌から、
 地球の側に立って物を考えられるようになった。
       自然中心主義の考えを習ったんじゃなくて、
        体の中から自然に生まれたってことだから、凄いよ

でもこのまま進む、
人間中心の考え方の行き着く場所は、・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・と、ここまで書いて、
          何を言いたいのか自分でもわからなくなってきた。

しかし、これらは全て大切で・・・・

必ず、深く繋がっていて・・・・
・・・・本当に命とは、平等なものだろうか?

それが整理もつかず膨らんでいる俺・・・・
            

いまだ          
   どうにも抑えきれない感情を、ただ抱えている。