まだ幼い少年に話しかけている・…

今日は、どこで何をして遊んでいたんだ? と、聞くと、

少年は、
「 今日は、ひろくんと、まいちゃんと、僕で、
      怒られるおじいちゃんの近くの河原で遊んでいた。 」という。


すぐ、どんな事をして遊んでいたのか? と、続けて聞くと、

「 その川でカニを捕っていたら、
   川から小さいにんじんが10個くらい流れてきて、
        そのにんじんを、みんなで集めて洗って食べていたら、

すごくおいしかった。

おいしかったのは、
  きっと水がおいしいんだと思って、
    その水を手ですくって飲んでみたら、
         おいしかったから、おいしいんだと思った・・・・。 」

             と、解っているような、わからない事を言う。

そして他には何もなかったか? と、続けて聞くと少年は、

鳥が泳いでいたというので、????鳥が泳いでいた?
              と、しばし考えて(おそらくアヒル)

そうか、鳥も泳ぐんだから・・・・ 
            それでいいぞ!!そんな会話をした覚えがある。

少し成長した少年は、
      町の小さな野球チームに入る事になった。

初めての
  グローブとボールをつけた子供達のキャッチボールは、
         わずか3?4mの距離で向かい合って投げても、
                   山なりの球道を描いて届かず、

受けてキャッチする側も、
真正面にコロンコロンと転がるボールを
    後ろにそらしてしまうようなレベルなのだが、2カ月ほどたつと、

さっそく練習試合や紅白戦が始まる事となった。

初めて執り行われる試合は、
ゲームになるともならぬようなもので、親はもちろん、
選ばれた監督コーチが少年達に、叱咤激励をしているなか、
           試合はバットにボールが当たった!と歓声をあげ、

飛んできたボールをたまたま捕った! と、喜んで、
         それは、大人たちのための野球?と疑問もあるが、

打席に立つ子供達は、
がぶるヘルメットやバットの大きさが体に対して、
          アンバランスだが、そのまなざしは真剣そのものだ。

打席に立つと、痛くもないデッドボールに、
       ≪痛い≫と大声で泣きながら、ファーストに走る子供達。

そして、少年が初打席に立つ時がやって来た。

少年は、見事、バットにボールを当てて駆け出し、
   ファーストでアウト!の宣告をうけたと同時に泣きだして、
                 そのままベンチに走って帰ってくる。

大人達は、技術指導を行いながらも、
       ≪ 泣く子はダメだ ≫という精神論をおしつけ、

少年は、次の日も、また次の日も、
      アウトになるたびに涙を抑えることができなかった・・・・。

やがて少年は、

泣く子はダメだということに、泣いているかのように私には見えた。

ある時、私は少年にこう話した。
確かに、試合の中で痛いといって泣くのは良くないかもしれない。

けれど、悲しい、嬉しい、悔しいと思って、
自分の内側から自然に涙が出てくるとき、泣かなかったらダメになる。

その涙は、全然悪いことではなくて、
       むしろ、すごく大切な事で、
         きっと、それがわからない大人達がいるだけだから、
                     そのままでいい・・・・と。

しかし、少年はやがて泣かなくなった。

それは、その環境に応じていかなければ、
             いられなくなることであったり、

少年自身が成長していることでもあるのだから、
              仕方がないのかもしれないが、

私には、どことなくクールになっているのでは・・・・
                     という不安があった。

軟式から硬式へと、少年は野球を続けている・・・・

しかし、私は、
  あのファーストでアウトになった時の涙の大切さを、わすれぬよう
            時に直接、時にはさりげなく語り続けていたが、

少年はうなづきながらも、涙を抑え込んでいることが私にはわかっていた。

18歳になった少年は、最後の公式戦第一戦をベンチの中で迎えて、
              チームの夏はあっけなく終わってしまった。

少年を含めた子供達の全力の夏は、
   思春期の大切な感性を育てる時期を思えば、
             3年間まるごと野球漬けだったという、
休日返上に近い膨大な時間は、
   勝ち負けではない見地からしても、
     私には、あまりに味気がなく、色濃い物も感じられなかった。

子供のころから、一日たりとも、休むことなく貫いた少年の野球・・・

数日が過ぎた真夏の朝、
  妙にクールで、感情を押し殺しているような少年に、
                 私は、その努力を讃えながらも、

 煮え切らぬ、中途半端な少年を強く叱ると、
     少年はうつむいたまま、目から鼻先へあふれ出る涙を、
                  止めようともせず流しつづけた。

それから2人は、近くの里山のなかを目的もなく歩き、

散策しながら湧水を飲み、
   山止めコンクリートよう壁のわずかな段差をつたって進む・・・・。

すると、1本のナラの樹にいた、かぶと虫を捕まえ、

その先にある参道で、
   今では珍しくなったエメラルドグリーンのカナブンが、
         交尾をしたまま、つがいで死んでいるのを見つけたり、

信じられないような、緑の色合いをもつ、
     何かの幼虫の発見に鳥肌を立てて、携帯カメラにおさめていた。

少年の最後の夏の、
      激しい哀しみの涙を、誰も知らない・・・・。

けれど私は、あの初打席であふれ出た涙が、
    まだこの少年にしっかりと消えることなく
              残っていたことが、こころから喜ばしく、
            
           それに、自分が救われるようにさえ感じていた。

なぜなら、どんなに情熱を燃やし、
    努力して、目的を達成したとしても、
            その喜怒哀楽の中で、自分が自分に泣けること。

・・・魂を震わせたぶんだけを涙に変えて、
            浄化させられなかったなら、

たぶん、次の新たなステージへ昇っていったとしても、
     消耗した自分を、ただ抱え込んだままでしかないこと・・・・。

今の私自身が、
   そんな泣けない自分になってしまっている事が、

いかに淋しく悲しい事だと、
               この身体でわかっているからである。