《 左官職人 迫田幸一 》=左官請負グループ、
迫田班との決別について書き記しておかなければならない・・・。
そう思いながら、この文章に向かう度に、いつも息詰まってしまう事の連続で、もう3年という時間が過ぎてしまっている。確かに11年という月日は彼に対する、愛信義情恨義憎惨といった、数え切れない思いが心の中で、めまぐるしく絡み合い、到底ひとつの理屈では納めきれず・・・
だから、言葉や文字などで表そうとしても、膨れ上がってしまうばかりで、考え始めると感情は高ぶり、冷静さを失ってしまうような所もあった。その度、結局は、自分の中から必死に消し去り、押さえ込んでしまうだけで疲れてしまう。


それは、自分自身のエネルギーのベクトルが書き残すというより、忘れ去りたいというだけで、気持ちが一杯になってしまっていたのだと思う。
彼と自分を一言でいうなら、あの源氏物語の武蔵棒弁慶と義経のような間柄、まさに鉄の結束であった。
・・・・しかし今となってはその結末が、散々というより仕方が無い形で終わってしまった事。
それでも、もしも自分の人生にあって迫田との出会いがなかったなら、《まず間違いなく今ここにいる自分はあり得ない》だろうし、おそらく俺は、30歳も満たない内に挾土組の中で、完膚なきまでに叩かれ潰されていただろうと断言したい。 
それだけに彼との別れに対し、『なぜ』という疑問は今だに残り、生涯の忘れ得ぬ、万感迫る思いとして、今も尚、消しようもなく心の中で燻っている。

この迫田幸一と俺を表現するなら・・・まさに寝食、苦楽を共にした大野帳場左官の鉄壁の砦、双璧であり、無敵の軍艦の様にパワフルであった。二人のつながりは、人もうらやむ程に喜怒哀楽に満ちた長編ドラマの様で、それは今振り返っても痛快そのものであったし、約11年という時間の中で二人はいつも爽快で、脳天気で力強く、左官を愛し、支えあい、魔法のように純粋で、仲間や職人を大切にしていた。
二人は、いつもいつも、最大の敵と誰の支援もないに等しい状況で戦ってきた事を自負する。真夏の炎天下、コンクリートのど真ん中で、ぶっ倒れそうになって分け合った水・・・、どしゃ降りの冷夏、それこそ頭から足の先までセメントにまみれながら、信じる者は何もないと悟った意地のホテルアソシア。
当時会社の上層部はチームワークの欠片もなく、無常極まりない状況が、常に二人を追い込んでいた。 
命がけで臨んだ超大型現場では、一か八かの大勝負の連続で5年掛かりの光記念館は、日本最大・・・・etc。
またしてもの逆風などは常で、それはひとつの社内、内輪をも信じることの出来ない環境で、いつも矛盾を抱えたまま、ドス一本飲み込んで立ち向かっていた事については、誰の文句も言わせない・・・・。

この人間ドラマを何かに例えるなら、二人はまるで東映のヤクザ映画の最終の場面、お互いはこれで終わりだ!っと、毎日が腹をくくった、殴り込みの前夜の様であったと思う。
だから毎日、毎日、 3階の部屋の薄汚れた畳の上で泣き笑いの酒をどれだけ酌み交わしてきたか解らない・・・。 その大声に近い会話は、2階にある事務所まで響き渡り、奴等、また飲んでるな!と、(●●●●)いつも白い目で静視し、あえて失敗するのを待ち構えている様な日々でもあった。それでも二人はそれを百も承知と諦めながらも、何の為にこんなにも頑張っているのか解らなくなっていたし、きっとお互いはこんな現実の中で、自分自身に負けない様、そうして、はちゃめちゃに酒をあおり、奮い立たせていなければ、居られなかった事を思い出す。

迫田という職人は、元々鹿児島の出身の叩き上げの職人で、今の時代には珍しいほどに単純で、馬鹿がつくほど一直線で、大酒を食らい喜怒哀楽がめまぐるしく変わる人間で、気持ちが乗れば腕とパワーはピカイチ。臭すぎて滑稽な程のやさしさと、惚れ惚れするような気遣いや統率する不思議な魅力と切れ味を持っていた。
例えば・・・
現場での工程会議。職長である俺が到底出来ないような仕事量に対し、啖呵をきって受けてしまった結果それを話すと、出来る訳ないだろうと怒鳴りながらも、お前の言った事は俺の事だと言い、それこそ地下足袋を履いたまま布団で寝起きするほどの迫力で、ボロボロになるほどに燃え上がっていく強さに・・・自分もまたボロボロになることに、酔う様な美学さえ感じた・・・そんな例も数知れない。
 光記念館、入場禁止の日曜日。試行錯誤してきた塗り壁の機械の試験仕上げに忍び込み、俺が壁を仕上ながら、わざと足場から落ちても尚、機械を放さず倒れたまま、仕上げを続ける行為をすると、『こいつは馬鹿だ』と腹を抱えて笑い・・・その本番、現場では、機械の激しい音に鼓膜を破り、それでも音が聞こえないと良い仕事が出来ないと怒っていた事。
真冬のコンクリート、たった二人の夜中の残業(800?もの床工事)では、お互い20m以上離れた位置に立ちあまりの寒さに歌った、『ああ上野駅』と『東京の灯火よいつまでも』は恥ずかしいくらいの大声で痛快だった。

こうして思い起こせば止めどもないが、長い間いつかはと憧れてきた左官全国技能競技大会への出場をめぐって●●●●は、『仕事を疎かにする』と、またしてもの反対の中『お前ならやれる!全国に向けて勝負しろ!お前のいない3ヶ月や半年は全部俺が引き受ける、任せて集中しろ!』会社内部ではなく、そんな外部の迫田の言葉に悔しさと嬉しさが混じり、泣けて泣けて仕方がなかった事は忘れられない。

しかし、この素晴らしさと比例するかのように、動かぬとなると、博打に明け暮れ、さけをあおり、何かの中毒患者の様に、支離滅裂でふぬけになり、誰も手の付けられない男になった。年の暮れには決まったように何日も仕事に出てこなくなった。『何してる!』っと叱ると、
  俺の手を握り、1年ありがとうとポロポロと泣いて、
     朝から一緒に飲んでくれと動こうとしない、そんな迫田流の感謝の形であった。

そうしたエピソードは当時の会社には全てが型破りだと悪く評され、
       自分と迫田をおとしめるに恰好のネタとして、よく叩かれたものである。
そしてその度、会社は二人にレッテルを貼り、迫田もその度に、この会社を去ろうとした。
そうなると俺もまた、上層部と対立し、気晴らしに二人で夜の街を飲み歩いた事も忘れられない・・・・。

俺は迫田と二人、11年もの間、会社の中で最も困難とされる大きな現場を任され続けて切り抜ける度、その負担は、さらに大きな矛盾を含んだ冷酷さで膨れ上がっていき、自分の体には異変が様々な形で表れ始めた。やがてそれは、徐々にこの会社を出る決意を固めていく事になる。当初、迫田はそれを信じなかったが、自分が本気である事を悟るのにそんなに時間はかからなかった。
『一か八かの博打だけど、それでも俺と一緒にやってくれるか?』と促すと、
『俺がお前を支えなかったら、誰が支えるんだ、一からやるか、お前が去った一ヶ月後に必ず来る』
そんな会話に、二人なら何とかなると勇ましかったものである。そうして、その日が近づくにつれて、まともな会話にならぬほど、昼夜問わず酒に明け暮れていたように思う。
・・・会社を去る前日の晩、日当は16000円。この条件で納得してくれ・・・
答えはNOであった。彼は『金の切れ目が縁の切れ目だ』
煮詰まっていた俺も即座に、『そうか、じゃーこれで終わりだな』の、この二言。これで11年が終わった・・・。
迫田班は『挾土組』に残り、俺は『職人社秀平組』を設立。完全にたもとを分けた。
そして数ヵ月後、偶然一日だけ同じ現場になった事があった。迫田は俺に近づき元気か?とあっけらかんとして声をかけてきた時、俺は一喝し、彼も言葉を吐き捨て去った。

それからというものは、迫田に対する愛情と憎しみの思いを抑えること、忘れる事だけを考えていたが、いろんな情報が否応なく聞こえてくるのが、さらに情けのない事の連続ばかりであった。俺がいなくなって迫田は、言うなれば野放し状態となり、おそらく誰の忠告も聞く耳を持たなかっただろうし、また、あの会社には、それこそ親身になって迫田を心配する人間もいないのは手に取るように解る。

*当然、常識がない、ルーズなどとつまはじきにされ・・・
*3階の鉄骨に非常階段で酒に酔い、動物の様に泣きながらなにか叫んでいた・・・
*鉄骨階段から転げ落ち、額を割り布団の中で血まみれになって寝ていた・・・
*現場の足場から転落し、足の骨折。それでも酒をやめず感知しない状態。
*作業中の昼寝、行方不明
そんな状態の中で、追い討ちをかけるように、女房のガン発覚と手遅れ、会社を引き上げ岐阜の自宅に帰ることになる。
・・・迫田班の解散・・・会社に残ったメンバーはやがて解雇。

そんな噂を耳にし、たまらず、仕方なく岐阜の迫田のもとに走った。
一回目は、女房がまだ自宅にいる時で、さすがに気丈で根性の座った女性であった。見舞いに行った俺に酒と手料理を振る舞い、自分がどんな状況であるのかも全て悟っているのがよく解った。
二回目は病院に入り症状がかなり悪くなってしまった頃、自宅に行ってみると泥酔し、何も食べていないと言う・・・スーパーに買出しに行き、寿司や肉、他を買ったが食べれないと言い、子供は母の顔も見に行っていないという・・・そんな返事にカッと来て、身内同様にすごく怒った事もあった。

それから2年、3年が経ち独立して4年が過ぎ、そんなに疲れても体の異変は伴わず、
今、不安の中で不思議な程に充実し順調である。
それでもどんなに忙しくても、俺の中で、ふっと迫田が蘇る。そして、ここ一番逆境に立つと頭に浮かぶ。
しかし、今の迫田は、もう、俺の知っている迫田とは別の人間になってしまっているようだ・・・。毎日毎日、仕事も行かず飲んでいる、アルコール依存症になっているのだろう。
            当然、体も腕も気力も衰え消え失せてしまっているという。

つい最近、電話で話しをした・・・・。
『元気か?・・・そうかそうか、もう俺はダメだ、使い物にならん、お前は万年3位だったけど、もう日本一や、お前ならヤルと思っていた。  俺の事はいいからがんばれ。・・・金?いくらでも借りる所はある、心配するな・・・』簡単な話が終わって・・・もう、一緒に組む事は二度とないと痛感した。
生きたまま死んでいる迫田を助ける手立ては見つからない、対等だった二人はお互い惨めになるだけでしかない。      ・・・そして心配だけが残り続ける。

全ては最後の夜のあの瞬間、たった二言、ほんの少しのすれ違い。
いまさら後悔しても始まらないが何故もっと腹を割れなかったか?何故あんなにも簡単に別れたのか、改めて大切なものかけがえのないものを深くじっくりと愛する事が出来なかったのかを思う。
そして全てを賭けて働いてきた二人を追い込み、切り裂いた会社≪●●●●≫を残った迫田を見殺し使い捨てにした事を、俺は憎まずにはいられない。
鹿児島出身、20歳そこそこでセメントモルタルの左官請負として高度成長の波に乗り、腕はピカイチ、馬鹿がつくほど純粋で一途で単純で子供のような不思議な魅力と
       人生に不器用だが弁慶のような力強さを持っていた迫田幸一は
ひとつの時代の昭和最後の左官職人であったと思わずにいられない。
          そんな愛すべき奇跡のような職人を俺は失ってしまった