歯ぎしりつばきし、ゆききする、私は一人の修羅なのだ
まことの言葉はここになく修羅の涙は土に降る・・・・。

これは、上宝村『泥の円空』を見たあと、あの小林氏が宮沢賢治の詩を
引用し評した言葉である。
自分は今でもこの言葉を受けときの、
なにかゾクッとするような強烈なショックを忘れることができない。
あらためて、歯ぎしりつばきし・・・と続くこの数行の詩に・・・。


その意味としての力と、音、響きとしての力があるとしたなら、
自分はこの2つの力に、あまりにも強烈な印象を焼きつけられてしまっているようだ。

それをどう説明するかはとてもむずかしい・・・。
自分の心のなかに住む、もう一人の自分の世界のイメージを、
垣間見てしまったかのような感覚。
なにか一瞬写ったというか、浮彫りになったような、
そんな瞬間の映像を見てしまったような衝撃。

そこはなにか、とても醜くて物恐ろしく、また音もない、
おぼろな月夜に似た世界で、まわりは黒透明なぶぶんと、
澱んだぶぶんとが複雑に入り混じった闇の空間がひろがり、
       そこにひとりの影のような存在がたたずんでいる・・

孤独な影の存在は、闇の中でただれ、ヌメついて光りながらたたずみ、
なぜか首以外の部分を動かすことが許されず、黙り、膝、腰、肩も動かせず立っている。
        そんなうしろ姿を、皮膚感でとらえている自分。

男は、目線の下の胸元に両手の平をあわせてひろげ、
  その空間が広いのか狭いのかも何もわからないままに、
    立ち続けていなければならない約束にしばられている・・・。

たぶんそれが『一人の修羅』
修羅は、自分の知らない自分のことを、全てにおいて見透かしていて
自分は修羅の顔つきも、身の丈も、指の形も、声も知らない…。

しかしその心の内は、すごく深く繋がっていて
切れ切れにつづく点線のように、途切れながらもわかってしまう、
自分の内面が、どんどん色分けされて二つの心に引き裂けて、
なんだか妙に怖くなる。

思うに・・・・・
『一人の修羅』はもう一人の自分。
自分と背中あわせの悪辣と嫉妬でできた自分なのではないか?
この言葉を受けて以来、こうした不思議な光景が、
自分の中に生まれては映り、取りはらえない。

一方で、自分は光の中で、喜怒哀楽に明け暮れ過ごし、生きていて・・・
もう一方の世界は、とらえどころもない場所で、
            わずかな光と闇のなか・・・
                そうして、修羅は立っている。 
 
目線の下の胸元に、両手の平をあわせて広げ、その手の平を見つめている。

そうして手には、なぜかどこからともなく、瞳孔を一杯に開いて解るほどの繊細なガラスケースが降りてきて、その目の前で、割れてはこぼれ落ちてゆく・・・。    

ケースは割れても割れてもセットされ、
自分が起す喜怒哀楽のすべてに対し、
心が揺れるとそのつど、割れる。
ガラスの欠片は、その足元に、皮膚をかすめて、薄っすら光り舞い落ちて、
こぼれ積もってゆくのである。

今、こぼれ積もったガラスのクズは、
『一人の修羅』の、
 皮膚を傷つけ、何処まで埋めたか、わからない・・・・・。

『一人の修羅』は、
   すなわち鏡にうつる、自分の修羅であるのなら・・・

まことの言葉は失われ、
雲はちぎれて空を飛ぶ、 怒りの苦さ、また青さ、
歯ぎしり燃えてゆききする、 俺は一人の修羅なのだ。

いつかガラスは修羅を埋め、
その口を埋め、息を止める。
それは同時に自分も消える時かも知れない。